三 日本仏教の介入と朝鮮の傀儡政権
上記のような李朝による仏教弾圧を阻止するという名目で、日本の仏教は、明治政府の半島進出に強力することになった。
明治時代に、朝鮮布教を最初に開始したのは、浄土真宗大谷派だとされている。同派は、一八七六年の「日朝修好条規」締結の翌年から布教活動を始めた。中心人物は奥村円心(えんしん)であった。これは、東本願寺(真宗大谷派)の法主・厳如(げんにょ)の命による。東本願寺は、当時の内務卿・大久保利通(としみち)と外務卿・寺島宗則(てらしま・むねのり)から布教活動の依頼を受けていた。東本願寺釜山(Busan)別院が一八七八年に建立された。明治政府の中国、朝鮮への発展に合わせて東本願寺もまたこの地への布教を開始するとの宣言が出された。要約する。
<明治政府が維新の大業を完成し漸(ようや)く支那、朝鮮等の諸外国に向かって発展しようとしている。本願寺も亦(また)北海道の開拓をはじめ支那、朝鮮の開教を計画している」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一八ページ)。
円心は、一八九八年に本山に以下の内容の報告書を送っている。要約する。
<国と宗教の教えとの関係は、皮と毛のようなものである。日韓もまた唇と歯のような関係にある。両者が相補って完全な姿になるのである。現在の韓国の状況は悲惨なものである。日本の忠君愛国の思想を韓国に誘導すべきである。かつては、日本は韓国から文化風物を教えてもらった。それによって、日本は繁栄した。いまや、日本が韓国を誘導開発するときである>(川瀬[二〇〇九]、二六ページより転載)。
東本願寺もまた、キリスト教のように、文明の使徒になろうとしていた。もとより、キリスト教への対抗を意識したものであった。
円心は釜山別院に朝鮮語学校と「釜山教社」を設置した(一八七七年)。釜山教社は、貧民救済を目的とした社会事業で、日本人による朝鮮での社会奉仕団としては最初のものであった(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一六一ページ)。
真宗大谷派に続いて、一八八一年に日蓮宗、一八九五年に浄土真宗本願寺派(西本願寺派)、一八九八年には浄土宗、一九〇七年には曹洞宗等々が、朝鮮半島に進出した。
そして、李朝によって弾圧されていたこともあって、朝鮮の仏教徒は、日本の仏教団の半島への進出を歓迎していた(川瀬[二〇〇九]、二八ページ)。
既述のように、朝鮮仏教の僧尼たちは首都内に立ち入ることが禁止されていた。この「都城出入禁止」の打破が、日本の仏教団の重要な戦略であった。これを成功させたのが、日蓮宗僧侶の佐野前励(ぜんれい)であった。一八九五年、彼は、当時の朝鮮総理大臣・金弘集(Kim Hong-jip)に禁の廃止を願い出、それが認められたのである。
金弘集は、一八八〇年に来日し、一八七六年に締結されていた不平等条約の「日朝修好条規」改正交渉をした。日本の拒絶により目的は達成されなかったが、その後、国王・高宗(Gojong)を説得して、開化政策を推進させた。しかし、開化政策は儒者や保守層の反発を招いた。一八八二年の「壬午軍乱(事変)」(Imo gullan)での「済物浦(Chemurupo)条約」を日本と結ぶ交渉にも当たった。一八八四年の「甲申政変」(Gapsin jeongbyeon)でも時局収拾に努め、一八八五年、日本と「漢城(Hanson)条約」を締結交渉の任を担った。
一八九四年(干支で甲午)の「甲午(Gabo)農民戦争」(東学党の乱とも呼ばれる)にも金弘集は積極的に関与した。改革は、中国の年号踏襲を廃止、科挙制度の廃止、行政府の整理、銀本位性の導入、軍制度改革等々、急進的なものであったが、これが国内を紛糾させた。
乱に手を焼いた閔氏(Minbi、高宗の妃)が牛耳る朝鮮政府が清国へ援軍を依頼すると、日本軍も出動した。日本軍は、日清戦争の直前に閔氏政権を転覆させて親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させ、興宣大院君(Heungseon Daewongun)を執政に据えた。
一八九五年四月一七日、「日清講和条約」(下関条約)の調印。同年四月二三日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。同年七月六日、閔氏一族がロシア公使の援助を得てクーデターを起こした。彼らは、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。
同年一〇月七日〜八日早朝、これに対して、日本公使・三浦梧楼(ごろう)はもう一度大院君を政権に就けようと図った。八日早朝、暴徒が宮廷を襲撃し、王妃である閔妃の寝室に乱入し、侍女も含めた三人の女性を斬殺した。死体を王宮外の前庭に運び出し、積み上げた薪の上で石油をかけて焼き捨てた。
朝鮮人守備隊同士の衝突に見せかけようとした計画にもかかわらず、米国人医師の目撃証言によって、日本人の犯行であることが明確になった。
これに対して、日本政府は、この事件を三浦公使をはじめとする出先官憲の独走であるとの立場を取り、犯行に関わった者たちを日本に召還し、日本で裁判にかけた。しかし、最終的には、証拠不十分として全員無罪となった。
日本政府によって樹立されていた金弘集政府は、日本の圧力に屈して、三人の朝鮮人を真犯人として処刑した。しかし、この措置は、朝鮮人の怒りを買い、各地で武装蜂起が生じた。
翌一八九六年二月、ロシア軍水兵の応援を受けた反日派(保守派)のクーデターが起こり、金弘集や魚允中(O Yun-jung)らの政府要人が処刑された。この時、高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年余りの間そこで政務を執った。
一八九七年、高宗王は王宮に戻り、朝鮮が清国に臣従していた形を改め、独立国であることを示すため、同年八月、それまで使っていた清国の年号を廃止して朝鮮の元号を定め、「光武」とした。同年一〇月一二日、それまでの「王」の称号を「皇帝」に改め、高宗王が高宗皇帝に即位した。同年一〇月一六日、それまでの「朝鮮」という国号を「大韓帝国」(一八九七〜一九一〇年)に改めた(http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_note/DokuKyok.htm)。