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御影日記(11) 金融権力盛衰史(6)―3. カントの道徳論(1)

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                      本山美彦(京都大学名誉教授)

 はじめに

 道徳(Sitt)とは「真善美」(Truthahn, Güte, Shönheit)の実行に他ならない。しかし、「真善美」という言葉は、その反対の「偽悪醜」(本山造語)を前提にしていて、これがカントの道徳論の基本的立脚点であると、私は思う。

 その理由を比喩的に述べよう(1)。お世辞にも清潔とは言えない町角に「街を美しく」、「川をきれいに」、「ゴミは持ち帰りましょう」というステッカーが貼られている光景を私たちはよく見受ける。このステッカーを見て、私たちは「この町は清潔な所で、住民に公衆道徳が行き渡っている」とは、まず思わないだろう。美しさを呼びかけるスローガンを見る人たちの多くは、「本当にこの町は汚い」と思うだけだろう。そもそも、このようなステッカーが貼られている町は、例外なくと言っていいほど汚い。塵一つ落ちていない町にこの種のスローガンは見受けられない。町が清潔か、清潔でないかの差は、自治体の財政力によっても幾分左右されるのであろうが、けっして豊かではない田舎のたたずまいの美しさに対比させれば、あるいは、江戸時代の町屋通りの清潔さを思い起こせば、基本的には、財政力による差違というよりも、公衆道徳の不足している住民が多数住んでいる町ほど汚いと言えるだろう。公衆道徳のなさが、美しいスローガンを多用してしまうのではなかろうか?

  晦渋なカントの哲学に入る前に、カントの道徳論を叙情的に要約する作業から、本論文は入ることにするが、気恥ずかしくなるような美しい言葉で道徳の必要性を語ったカントの背後には、既成社会の醜さに対するカントの強烈な怒りがあった。私のこの文章を、町の美化を訴えるスローガンの比喩から書き出したのは、カントの姿勢を強調したいためである。

 1. カントの「根源的な誤謬」

 カントは、冒すべからずとされてきた人間の「純粋理性」(reinen Vernunft)を批判することに生涯を懸けたと言っても、言い過ぎではない。

 理性によって人は正しい判断を下せると断定してしまうのは誤りである。理性には、「根源的な誤謬」(Erbfehler)が根付いている。これは、キリスト教の教義にある「原罪」(Erbsünde)を意識してカントが使用した言葉である。「原罪」は人間が誕生した直後に人間が冒してしまった「根源的な悪」(根源的悪=radikales Böse)である。同じように、「根源的誤謬」は、人間が自然から離れて「理性」に最終的な価値を委ねるようになって冒してしまった結果から生み出されたものである(2)。

 理性は、しばしば人間の判断に致命的な誤りをもたらしてきた。天動説はそうした理性の誤謬の典型例であった。あるいは、「努力をすれば報われる」という道徳観に従って努力した結果、報われた成功者たちがしばしば弱者に対して非人道的に振る舞うようになることも、そうした道徳を推奨してきた理性の誤謬である。競争社会で生き延びてきた成功者たちは、ともすれば、他人よりも優位に立とうとする心情を大きくしてしまう。そうした事例を私たちは日常的に見聞きしている。

 理性における「根源的誤謬」だけが問題なのではない。人間には悪事を冒すという根源的な悪の心があると、カントは、「真善美」の反対側の存在に論を進める。

 人間には、「してはならない。それは悪いことである」との意識はあっても、ついついその悪いことをしてしまうという性癖がある(石川、同上書、二二二ページ)。これが根源的悪である。

 根源的悪の存在を示す明白な事例として、先述の「努力をすれば報いられる」といった素朴な道徳観がもたらす競争社会の結果がある。たしかに、人間社会は競争原理から成り立っている。競争原理が人間の素質や才能を開発してきた。その事実は否めない。しかし、競争社会の行き着く先は、傲慢な成功者とひ弱い脱落者の二極分解であり、「万人に対する戦争状態」(bellum omnium contra omnes,  thye war of all against all)が支配するトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588~1679年)の世界である(3)。

 しかし、競争に勝ち抜いてきたからといって、人が幸せになるものではない。それは、他国民を征服してきた権力者の末期の悲惨さを思い起こせばよい。国内で権力を掌握してきた俗物の身辺に渦巻く数々の不幸を想起すればよい。いまでも世界の至る所で殺戮が繰り返されている。権力者自身が自ら冒した悪によって必ず襲いかかってくるであろう破滅の瞬間に怯えている。成功者と言えども、自らが冒した悪の存在は充分知っている。

 しかし、悪を冒したからといって、良心に痛みが走らない人間はいない。人間の悪が究極的・根源的なものであるほど、「善」を求める気持ちが人間には強くなる。そうした意味において、人間には多くの「善への素質」(Anlage zum Güte)がある。

 こうした根源的な悪を根絶することは不可能である。しかし、克服しようという心情は必ず根源的悪の中から生み出されるものである。これがカントの道徳論である。

 カントの道徳論の神髄は、神を詰問してはならないという『宗教論』(Kant, Immanuel[1793])に見られる。神(=道徳)は各自の心の中に存在しているものであり、自分の外にある絶対者によって自らの「自由」な心が支配されてはならないとカントは強く主張する。

 神に啓示(4)を求めてはならない。神は内なる存在であって、「見えざる教会」である。「見える教会」など意味がないのに、人間はこれを転倒させてしまい、壮大な教会を神の現れだと錯覚して、これにひざまずいてきた。しかし、大事なことは内なる神を見つめ、少しでもそれに近づくことである。そうした行為が道徳を実行することである。宗教もこうした道徳の上に成り立つものである。

 このカントの主張は、教会の権威に真っこうから挑戦するものであった。当時の雰囲気からすれば、カントは、絶対者としての神の存在までを疑う無神論であると受け取られかねないものであった。事実、カントは、啓蒙君主として名高かった第三代プロイセン王(在位、1740~1786年)のフリードリッヒ大王(Friedrich II der Groß, 1712~1786年)が一七八六年に死去した後を継いだ、啓蒙主義に反対する君主のフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(Friedrich Wilhelm II, 1744~1797年)の逆鱗に触れ、一七九四年、カントの『宗教論』(Kant, Immanuel[1793]は発禁処分を受け、公職追放寸前までいった。王の生前中には宗教に関する一切の著述はしないと誓うことでカントは公職追放処分を免れた、その三年後に王が逝去するや否や、カントは宗教批判を再開した(石川文康[2012]、二二九~三〇ページ)。

 その『宗教論』は、「人間における悪」(根源悪)を起点に据えた著作である(石川文康[2012]、二二一ページ)。道徳という考え方が成り立つのは、悪という前提があってこそである。人間には、「善きもの」が何であるかをよく知っている。「根源悪」を根絶することは不可能であろう。しかし、「悪への性癖」を一定程度克服することなら可能である。善への道を目指す「漸進的改革」(Almaliche Reform)こそが道徳である(石川文康[2012]二二一~二五ページ、参照)。道徳を追求しても、人はそれで幸福になれるわけではない。そうではなく、幸福を受けるに値する人になることを約束するのが道徳である。それが「最高善」(höchst Gut)である。

 注

(1) 哲学の世界では、自らが主張する原則の正しさを証明するさいに、数学的な演繹ではなく、比喩(analogy)が多用される。邦訳では「類推」という語句になっているが、カントが多用した'Analogie'も「比喩」と同じ意味である。「アナロジー」とは比例関係を示すもので、「数学的・量的な比例関係ではなく、質的比例関係を意味する。数学の場合、異なった量同士の等しい関係をあらわすのに対して、今(本山注、カントの『経験の類推』)の場合、異質なもの同士の等しい関係をあらわす」(石川文康[2012]、一二六ページ)。厳密な数理的思考にこだわる人には、哲学におけるそうした手法に違和感を覚えられかも知れないが、私も引用した石川文康の見解を是としたい。
であろう。

(2) 石川文康は、「原罪」という言葉をもじって「源謬」(げんびゅう)ちいう訳語をカントの言葉に当てている(石川文康[2012]、二三六ページ)。

(3) 人間社会は、国家の立法による規制がなく、自然状態のままに放置されると、すべての人が戦争状態に陥るとした主張が『リヴァイアサン』(Hobbes, Thomas[1651])で展開された。「リヴァイアサン」(Leviathan)というのは、旧約聖書の「ヨブ記」(5)に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。正式な題名は"Leviathan or the matter, form and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"(『リヴァイアサン、あるいは教会的で市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力』)。

 ホッブズは人間の自然状態を、決定的な能力差のない個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争(the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、人間の自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡するという社会契約が必要であると説いた(http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_books/hobbes.pdf )。

(4) 「啓示」(Offenbarung)とは「自らを顕わにすること」(sich offenbaren)である。カントは、奇蹟を示すことで神を認識させようとする教会の手法は間違っている。宗教は人間の心にある神的なものを「顕わにさせる」という役割を担うものでなければならない。歴史的・民族的制約下で雑多な要素を含む宗教を純化して、人間の内なる神(=道徳)が「自ら」を「顕わにする」ようにもっていくことが、宗教に求められる。理性に限界があるとしても、それを追求するのが宗教でなければならないとした(石川文康[2012]、二二六~二七ページ、参照)。

(5) 松岡正剛は、「旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。・・・しかし、文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した」と述べている(http://1000ya.isis.ne.jp/0487.html)。

 『ヨブ記』は42章から構成されている。そのうち、1、2章と42章の一部が、散文形式、他は韻文形式で、散文には敬虔なヨブ、韻文には神に疑問をもつヨブが描かれたいる。
 もともとヨブは裕福な名士で、家族、土地、家畜に恵まれていた。そのヨブの信仰を神はさまざまな試練によって試したが、ヨブはつねに信仰の堅固さを見せた。

 そこで神は悪魔(サタン)を呼んで、ヨブの財産と体を傷つけて見ろと言った。悪魔から体に腫瘍を植え付けられて体中を掻きむしって苦しむヨブだが、依然として神を恨まない。「神を呪って死ぬほうがましでしょう」と言う妻をヨブは一蹴する。

 ヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。ヨブは、次第に神を呪い始める。悪行を働いたことのない自分がなぜ苦しめられるのだと嘆くヨブに対して、友人たちは、ヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見て、ヨブを罵倒する。しかし神に申し立てたいと激高するヨブは、自分が間違っているのなら、その報いを受ける覚悟はあると神に向かって激しい言葉で詰問する。しかし、神は沈黙したままであった。神は、ヨブを裁く権利をもっているのかとの大疑問をヨブはここで吐く。「自分は神とともに裁きの場に出たい」と神を非難する。しかし、それでも神は沈黙したままである。

 こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。神に絶望した。もうすべてから自分を離脱させて欲しいと願うようになる。最後は神が登場する。そして神はヨブを一喝する。「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」(本山注、お前は神によって創られたことに思いをいたさぬのか?「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか」(本山注、お前は神と徹底的に争う勇気はないのか?)。そしてヨブは詫びる。「いまや私の眼が貴方を見ました。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。そして、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになり、7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、140歳まで生き長らえた。残酷な神、耐えねばならない被創造者としての人間。憎悪の神への信仰栗苦しさ。人間は、自由意志では生きてゆけないのか?この物語は、 たしかに、旧約聖書物語の白眉であることには違いない。

 引用文献

Hobbes, Thomas[1651], Leviathan. 邦訳、水田洋訳『リヴァイアサン、1 ~ 4』岩波文庫、一 九八二年、改訳版、一九九二年。永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサン I ~ II』
     中公クラシックス(中央公論新社、二〇〇九年)
Kant, Immanuel[1793], Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft. Kant's gesammelte Werke, Bd. 6, Academie der Wissenschafte, G. Reimer, 1914. 邦訳訳、北岡武司訳『たんなる理性の限界内における宗教、カント全集・第十巻』岩波書店、二〇〇〇年。
石川文康[2012]、『カント入門』ちくま文庫。第一刷は一九九五年。
旧約聖書・「ヨブ記」翻訳[1971]、関根正雄訳『ヨブ記』岩波文庫。


御影日記(12) 金融権力盛衰史(7)―3. カントの道徳論(2)

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 2. カントの「創世記」理解

 論理を展開するには、もっとも単純で基礎と成りうる抽象物を出発点として、抽象物にそれより少し具体的な次元の物を付け足し、さらに次元を具体化させて、最終的に具体的・複雑物(現実を映し出す真理)を描き切るというのが原則である。しかし、そうした論理展開の前には、出発点となる物を発見するために複雑な現実を区分けしなければならない。この区分け作業が下向(抽象化)過程と言われるものである。そして、出発点から具体的な真理を叙述する過程が上向(具体化)過程と呼ばれるものである(  http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3412480/top.html)。

 ここには、論理的な継起(論理を展開する順序)はあっても、物理的な時間的継起はない。抽象化過程にしろ、具体化過程にしろ、思考の回路で物理的な時間は流れない。あるのは、論理展開の順序だけである。

 こうした論理的継起を時間的前後関係として語るのが神話である。カントはこの点に注目した。カントは、人間が護るべき道徳律を、旧約聖書の創世記との対比で語ったのである(Kant, Immanuel[1793])。

 先述のように、カントの道徳論の基礎には「悪に傾斜する人間の性癖」認識があった。しかし、「悪に傾斜する」と表現するかぎりは、人が悪に染まる前の「無垢の状態」(Stand der Unschuld)(Kant, ebd., S. 41、本論文のカント『宗教論』の引用ページ数は、アカデミー版『カント全集・第六巻』、Werke, Bd. 6のものである)を前提にしなければならない。「無垢の状態」は、物事の論理展開に必要上(=本性上、der Natur der Sache nach)、まず最初に想定される事態である。

 旧約聖書の創世記には人間が神によって創造された直後の「無垢の状態」が描かれている。つまり、思考回路における論理的出発点を、創世記は時間上(der Zeit nach)(ebd., S. 41)のはじめに置いているのである。そして、無垢の人間であるアダムとイブに神は、「善悪を知らせる」木の実を食べることを禁じた。それは、善悪の存在を知ってはならないという禁止令である。道徳法則は神の禁止令として与えられている。これは、カントが道徳律を神という人間の心の外の絶対者によって外部的に押し付けられたものであると主張したことを示すものではない。逆である。神を人間が心の高みで等しくもっている崇高な心情であると理解するカントからすれば、禁止令は人間の心の外部に存在する神ではなく、人間が根源的にもっている内なる神の命令である。つまり、道徳律は、人間が人間であろうとするかぎり、逃れることができない崇高な原則なのである。カントの道徳律はこの一点に集約される。

 創世記には、人間は誘惑に負けやすい「弱い」存在として描かれている。無垢の人間が蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまう。その結果、人間は悪の世界に落ち込んでしまった。カントはこの状態を「堕罪」(Sündenfall)(S. 42)と表現した。

 カントは言う。人間が神の戒律(=道徳律)に無批判に服従することに躊躇して、数々の口実を設けて、神の戒律以外に自分の「自由な行動」を正当化できる動機がないかと、戒律から逃れる動機を探すようになると。それは、人間が根源的にもっている自由意志のせいである。ここで、カントは、悪も善と同じく、人間が自由意志で選択したものであることを力説する。神に盲従したくないという人間の自由意志が、神の戒律を守ることに条件を付けるようになった。戒律からの逃避衝動は、感覚的衝動でしかないが、人間の「自由意志」の発露であるには違いない。こうして、神の戒律(=道徳律)は貶められ、人間は罪の世界に転落したのである(S. 42)。カントは、このように解釈して、論理的継起における「悪への傾き」と創世記の「堕罪」とを同一視した。

 カントは、人間が生まれながらにして保持している根源的な素質を重視し、それを三段階の心の発展段階に分類している。第一段階が「動物性」(Tierheit)、第二段階が「人間性」(Menschheit)、最後の第三段階が「人格性」(Persönlichkeit)である。

 第一段階の「動物性」は「物的でたんに機械的な自己愛」であり、たんに自己保存の素質である。この種の自己愛はエゴイズムそのものであり、悪が接ぎ木されやすい。

 第二段階の「人間性」は「物的であるが、他人と比較する自己愛」であり、他人と比較して(vergleichend)平等(Gleichheit)でありたいという素質である(S. 26)。「人間性」には、自己だけでなく他者の存在に対する意識がある分だけ、精神的な要素が強くなっている。それでも、まだ物的な欲望から出た性情から抜け切ってはいない。この段階に人間が留まるかぎり、人間の心の中に悪が忍び寄る可能性は依然としてある。

 第三段階の「人格性」の素質が「道徳的感情」である。この感情は、道徳法則を尊敬する感受性をもつ(S. 27)。この段階になると、いかなる悪も接ぎ木されることはない。この素質こそが、「われわれの内なる道徳法則」(das moralische Gesetz in uns)である(S. 27)。

 カントは、心の発展過程を、自己に限定する感情から、他人を認知する感覚に進化し、そして、人間社会全体との調和を図る人格性を獲得したい意欲をもつ境地への達成という三段階に区分けしたのである。

 ただし、こうした道徳的感情が内から形成されたものではなく、外から押し付けられたものであるかぎり、道徳を遵守する本当の根拠(主観的根拠)にはならない。心の底から思い込まなければ、道徳への感情は悪への傾斜にすり替わりかねない。これが「人間の心の倒逆」(Verkehrtheit)である(S. 30)。

 人間の思考方法は、「その根において」(in ihrer Wurzel)堕落している。人間はつねに悪に傾斜する。その意味で「人間は本性上悪である」(Der Mensch ist von Natur böse)(S. 32)。

 悪への逆転も三段階ある。第一段階は人間の心(=心情、Herzen)の「脆さ」(Gebrechlichkeit)である。これは、善を遂行したいという意志をもってはいるが、ついつい悪に手を染めてしまう段階である。この第一段階ではまだ善への負い目が残っている。道徳律を遵守したいという気持ちはあるが、それを果たすだけの気力が自分にはない。自分は善(道徳)の規律を自分の格率(自分ながらの公理)として採用したいが、守ることができないという嘆きをもつ段階である。

 第二段階は心の「不純さ」(Unlauterkeit)である。これは、第一段階をさらに悪に傾斜させた段階である。自分は道徳律を守るよりもそれを守りたくないという別のもっと強い動機をもっているが、それでもまだ善への郷愁が残っている。「義務に適った」(pflichtmäß)行為を遂行したいし、対外的な配慮から義務を遂行することもある。しかし、他の道徳的ではない動機に第一段階よりも強く傾斜するのがこの第二段階である。これは「自由意志」の過失(=罪責、Schuld)である。

 そして、第三段階が「悪性」(Bösartigkeit)である。これは上述の「人間の心の倒逆」状態である(S. 45)。第三段階の「悪性」は、悪を悪として意識的に選択されたものである。この第三段階こそ、すべての格率を腐敗させ、人間を悪に突き落とす根本原因である。人間は、道徳法則を自己の律法としてもつ性癖もあるが、他方で、幸福になりたい、自分を他人より大事にしたいという性癖ももつ。それは自然なことである。そして、それは経験的によく見られることである。しかし、道徳律よりも自己愛の方をより徹底して優先してしまうと、もはや道徳律に背いたという自責の念すら失いかねない。それは意識して(故意に)選択した悪の心情である。

 悪の性癖は、行為からすれば道徳に適っていることが往々ある。「他人を助けたい」という行為がそれである。しかし、自己愛が次第に道徳の規律を冒すようになる。自己の見栄、自己の満足感、周囲から賞賛されたいという俗物性、そうした自己欺瞞に悪性は人を誘導する(1)。

 創世記は、人間のはじめを悪に置いた。しかし、その悪は人間の心の外(=蛇)によってもたらされたものであるとして、創世記はまだ人間に悪からの脱却の希望を残している。つまり、悪は人間の心の中に巣食っているもので、悪からの脱却など思いもよらないという構図を創世記は示しているわけではない。悪は、根絶できないかも知れないが、人間の力によって一定程度は克服できる。カントは、蛇の存在をそのように読み解いた。

 カントは、人間にはよりよき人格をもつべきだとの希望が「われわれの魂の内に鳴り響く」(S. 35)と情緒的に語っている。人間は「根源的な道徳に傾く性向」(urspurünglich moralische Anlage)をもつ。人間は「善の胚種」(Keim des Guten)を心の底に残しているものである。人間は自由意志から悪に傾斜したが、それでも、善に復帰したいという「心的素性」(göttlich Abkunft)を手放さず、道徳法則の「神聖さ」(Heiligkeit)を保持しているのである(SS. 49~50)。

 善なるものへの復帰力、心の中の革命、思考方法の変革、等々、カントは道徳に復帰する人間の回復力を信じた。演繹的証明はなく、数々の情緒的な造語を多用するという詰めの甘さがカントにはあることは否めない。しかし、人間が意識変革を行い、道徳律という「新たな根拠」(der neue grund)(S. 51)を獲得して「新しい人間」(ein neuer Mensch)(S.47)となるべきであるという、人間らしくあろうとするカントの姿勢に、私などは素直に感動してしまう。哲学をやたら晦渋なものにしてしまう演繹的なそれまでの哲学者とは異なり、人間の生き方を提示して見ようとするカントに私は気高さを感じる。

 カントは、道徳を実行した結果、自分が期待していたこととはまったく異なるものに行き着いてしまったとしても、つまり、正しいと信じて行ったことが自分を傷付ける結果になったとしても、道徳を遵守するという義務だけは果たされるべきであると主張した(S. 3)。

 人間は、神からの「恩寵獲得」(Gunstbewerbung)(S. 51)を願いながらも、それを当てにせず、よき善なるものに近づくべく、自己の根源的素質を駆使すべきである。人間は、神からの助力を受けるのに相応しい者になるために、自らできることをなさねばならない。このように、人間の心を革新させることを目的とする宗教が、カントの言う「道徳宗教」(moralische Religion)である。

 晦渋なものとされているカントの哲学は、このように分かりやすい道徳論の確立を目的としたものである。その根底には、人間の自由の尊厳を重視するカントの確固たる信念がある。

 経験的なものに依存せず、自然の必然性に盲従せず、道徳法則以外の何物にも「依存しない」(Unabhängigkeit)意志が、カントの言う「自由意志」なのである(2)。

 注

(1) この第三段階については、倉本香の説明が分かりやすいので以下に転載しておく。「自分が行っている人助けの行為にたいして、その行為は確かに表面的には善き行為であるから、秩序の転倒を忘れて、まるで自分に悪性がないかのように思い込む『自己欺瞞』の状態に陥るのである。そうなると悪は最大になる。また、このような動機の問題に特に煩わされることなく、ただ道徳的な振る舞いが自然に上手にできる人間も悪である。なぜなら、そのような人は道徳的な振る舞いをただその通りにしているだけで、道徳法則による意志規定の意識にしたがって選択意志の自由を充分に行使して行為していないからである。つまり、結局は道徳法則を転倒させているのである」(倉本香[2012]、二一ページ)。

(2) 本稿は、倉本香[2012]とともに、T. Yoshio「カントの宗教論」、http://homepage2.nifty.com/ytyt/Kant1.htmlにも依拠した。

 引用文献

Kant, Immanuel[1793], Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft. Kant's
     gesammelte Werke, Bd. 6, Academie der Wissenschafte, G. Reimer, 1914. 邦訳、
          北岡武司訳『たんなる理性の限界内における宗教、カント全集・第十巻』岩波
          書店、二〇〇〇年。
倉本香[2012]、「カント宗教論における根本悪と自由について」『大阪教育大学紀要』第一
     部門、第六一巻、第一号、九月。

御影日記(12)  金融権力盛衰史(8)─3. カントの道徳論(3)

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                                            本山美彦(京都大学名誉教授)

 1. 「哲学」と「形而上学」

 「形而上学」(けいじじょうがく)という言葉は分かりにくい。「哲学」(てつがく)と言えば済むはずなのに、わざわざ難しい表現を使うことに何の意味があるのか?しかし、考えて見れば、「哲学」というのも、分かったようで分からない言葉である。すんなりと理解できるものではない。

 そもそも、「哲」の意味は何か?国語辞典、『大辞泉』(小学館)では、「哲」は、道理に明るく、知恵があるという意味であると説明されている。「哲」は名前によく使われる字である。「さとし」、「さとる」、「あきら」と読まれていることにも表されているように、「哲」には仏教的色彩の強い「悟り」の意味がある。とすれば、「哲学」とは、「ものの道理を悟る学問」ということになろうか?

 古代ギリシャ語の「フィロソフィア」」(Φιλοσοφία、ラテン語でphilosophia、英語で philosophy)は、知を愛する賢人たちによって追求される学問一般を指す言葉であった。「フィロ」は「愛」、「ソフィア」が「知恵」だという(1)。



 「フィロソフィー」(philosophy)に「哲学」という訳語を当てたのは西周(にし・あまね、1829~1897年)であると言われている(2)。西の盟友に津田真道(つだ・まみち、1829~1903年)という人がいた。一八六一年の津田の著作『性理論』に西は序文(祓文)を寄せて、「フィロソフィー」に「希哲学」という訳語を当てた(西周[1960]、一三ページ)。ここでの「希」はギリシャを意味する語ではなく、「のぞむ」という意味合いを込めたものである。つまり、「希哲学」は「哲」(さとり)を「希望」(のぞむ)学問というニュアンスの言葉である(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/yakuji.html)。「希哲学」という言葉は、中国北宋時代の儒学者、周敦頤(Chou Tun-i, 1017~1073年)の『通書』(周敦頤[1938])所収の「志学」第十にある「士希賢」(士は賢(知恵)を希(ねが)う」から採られたようである。「賢」を同じ意味の「哲」に置き換えたのだろう(于崇道[2008]、一四二、四四ページ)。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西は、また、オランダに留学する(一九六二年九月)直前に書いた『西洋哲学史の講案断片』の中で、'philosophy' を「ヒロソヒ」とカタカナで表記し、その用語がソクラテスによって用いられたことを記し、それは「知恵を愛する人」という意味であるとして「希哲学」という語を再度用いている(西周[1960]、16ページ)。

 西は、オランダのライデン大学(Universitent Leiden)で指導してもらう予定のシモン・フィッセリング(Simon Vissering, 1818~1888年)教授に宛てた手紙の中で、あらゆる学問を学びたいと訴え(3)、あらゆる学問の中に'philosophy' を含めている。そして、帰国後に発表した『百一新論』(一八六六~六七年執筆、一八七四年山本覚馬蔵版として京都で出版)の中で、天道、人道を解明する学問が'philosophy' であり、'philosophy' を「哲学」と訳すと書いた(西周[1960]、二八九ページ)。以来、「哲学」という用語は、中国でも使用されるようになった。



 以上で、'philosophy' の意味とその日本語訳「哲学」ができた流れを説明した。次に「形而上学」(μεταφυσικά,metaphysica,metaphysics)の説明に入ろう。「形而上学」という訳語は、まことに違和感のある小難しい用語である。
 形而上学の「形而上」は、原語は古代中国語で、『易経』の「繋辞伝」(上)から採られた言葉である(4)。そこでは、「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述がある。ここで使われている「形而上」の「上」、「形而下」の「下」は、時間的な「前後」を表すものである。つまり、「形になる前の(五感で捉えることができない)ものが道であり、形になった後の(五感で捉えることができる)ものが器である」という意味である。もっと分かりやすく表現すれば、「心の中で思い描いた道は、やがて大きな器となって形に現れるようになる」ということになる(舩山俊克のブログ、http://toshikatsu.blogspot.jp/2010/02/blog-post_16.html)(5)。

 'metaphysics' の訳語として、当初は「性理学」が当てられていたが(薩摩英学生編[1869])、一八八二年には、「形而上学」という用語が初めて使われた(柴田昌吉・子安峻[1882])。この「形而上学」の訳語は、更に一八八四年、後に東京帝国大学哲学担当教授という権威者になる井上哲次郎(いのうえ・てつじろう、1856~1944年)(6)によっても採用された(井上哲治郎・有賀長雄[1884])においても現れ、以降、この訳語が日本で定着したと考えられる(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5858942.html)。

 それにしても、開国後、西欧の近代的な学問を、その神髄を掴んで早々と日本に導入できた背景には何があるのだろうか?明治時代の先駆的思想家たちの、古代中国の漢学に関する溢れ出るばかりの豊かな素養がそれを可能にさせたことは間違いない。雄藩だけでなく弱小の藩からも抜きんでた一群の俊秀を輩出させた江戸時代の学問体制への研究はもっと進められるべきだろう。

 「形而上学」という言葉は、和語としてしっくりとこないものではあるが、以下で説明する「メタフジクス」(metaphysics)の精神を見事に体現した訳語である。黎明期の日本で誕生した訳語が、漢語の本場の中国に大量に採用されたことの経緯もまた研究されるべきだろう。

 しばしば誤解されているが、「形而上学」と邦訳されている「メタピュシカ」(μετα ψυσικα, )は、アリストテレス(Áριστοτέλης, Aristotelēs、Aristotle, BC.384~BC322年)(7)の造語ではない。アリストテレスが「メタフィジカ」という言葉を使用したこともない。ギリシャ語の「自然」(ピュシカ)から生まれた「メタピュシカ」がラテン語表記で「メタフィジカ」(metaphysika)になったことも、アリストテレスには与り知らぬことである。古代ギリシャ語で表記される「メタ」は「後ろ」という意味であり、「メタ」は現在でもそのまま使われているが、「ピュシカ」は、ラテン語で「フィジカ」になり、英語で「フジクス」に転化した。つまり、日本語で表現される「形而上学」は、「自然」の「後ろ」にある学問を指す。たしかに、後世になって、「自然を形創るが、自らは形をもたない」、「経験的自然を超えたより高次のもの」を追求する学問が「メタピュシカ」でるあると理解されるようになった。しかし、誕生時の「メタピュシカ」という言葉は、そのような哲学的内容をもってはいない。真相はもっと単純なことにある。

 それは、アリストテレスの著作が、アリストテレスの死後、一八〇年以上経って編集されるようになったとき(8)、世界の根本原因を扱う哲学の一分野を扱ったアリストテレスの著作(『第一哲学』、protephilosophia)が、編集の順序として、自然を扱った一連の著作(『自然哲学』、physika)の後に置かれたからである。つまり、アリストテレスの『形而上学』という著作の題名は、著者のアリストテレスによって付けられたものではなく、後世の編纂者が、「この書は、自然学の後で編集されたものである」というメッセージを出しただけなのに、そのメッセージが、現在の『形而上学』という名称として生き残ったのである。ただし、自然を超えた理性の領域の学問に名を付けることは困難であったので、西欧ではそのまま「メタフジクス」の名称が使われ、わが日本で「形而上学」という大袈裟な名称になったのである。

 注
 

(1) 「(哲学とは)古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追及する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」(『広辞苑』第五版、岩波書店、一九九八年、「哲学」)。

(2) 西周は、英語からじつに多くの日本語訳を日本社会に定着させた。以下、列挙して見る。学術(science and arts)、地理学(geography)、音声学(phnology)、数学(mathematics)、天文学(astronomy)、哲学(philosophy)、生理学(physiology)、法学(science of law)、物理学(physical science)、幾何学(geometry)、動物学(zoology)、芸術(liberal art)、技術(mechanical art)、定義(definition)、真理(truth)、帰納(induction)、演繹(deduction)、命題(proposition)、感性(sensibility)、外延(extension)、内包(intention)、定言(assertion)、意識(consciousness)、感覚(sensation)、、理性(reason)、観念(idea)、総合法(synthesis)、実体(substance)、悟性(understanding)、主観(subject)、客観(object)、分数(fraction)、積分(integral)、微分(differencial)、子音(consonants)、母音(vowels)、博物館(museum)、、社会(society)、印刷術(printing)、新聞紙(newspaper)(小泉仰[2012]、六七~七〇ページ、参照)。多数の新造語が上のリストにはあるが、リストに挙げた訳語のすべてがそれまでの日本にはなかった新しい概念を表す新造語ではない。しかし、元々日本語にあったものであるとしても、古くからあった日本語の意味を現代風に改めたという西周の功績は非常に大である。

(3) 西は、ライデン大学への留学動機をこの手紙で書いている。(ライデン大学には、日本に)「必要な、また我が国で知られていない統計学、法学、経済学、政治学等の有用な学科が沢山ございます。・・・更に哲学と呼ばれる学問の領域をも訪れなければなりません」とし、哲学者として、デカルト(Rene Descartes, 1596~1650年)、カント((Immanuel Kant, 1724~1804年)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedlich Hegel, 1770~1831年)の名を挙げている(小泉仰[1989]、四三~四四ページ)。

(4) 『易教』は、文字通り「占い」の教典であるが、陰陽の対立と統合を基本として森羅万象の変化を説く古代中国の宇宙観を集大成したもの。『周易』(Zhou Yi)とも呼ばれる。『書』、『詩』、『礼』、『春秋』と並ぶ儒家の五教典の一つである。本体部分が「教」であり、その解説部分が「伝」である。「伝」は一〇の章から成り、「繋辞伝」(けいじでん)はその一つで、易の成り立ち、易の思想、占い方法等が述べられている(『易教』[1969])。

(5) ちなみに、道元(1200~1253年)の教えの重要な言葉に「道器」(どうき)がある。「道器」とは、仏の「道」を修行し、仏法を受ける「器」をもつようになった人を指す言葉である(道元『正法眼蔵』(しょうほうがんぞう)75巻本、第16巻「行持」(ぎょうじ)下)。また、蛍山紹瑾(けいざん・じょうきん)禅師(1268~1325年)の『伝光録』(でんこうろく)第十章「脇尊者(きょうそんじゃ)には、「人々悉く道器なり」という言葉がある。有名な「日々是れ好日なり」という言葉はその後に続いて出てくる(http://teishoin.net/leaf/28.pdf)。

(6) 一八九一年に「不敬事件」を起こした内村鑑三(うちむら・かんぞう、1861~1930年)を新進気鋭の東京大学文学部哲学科教授であった井上哲治郎が、国家的道徳を重視する立場から厳しく批判し、キリスト教攻撃をしたことは有名である。「不敬事件」というのは、一八九〇年に発布された「教育勅語」を同年第一高等中学校の嘱託教員となった内村鑑三が、一八九一年一月に同校で行われた教育勅語奉読式で、天皇の直筆からなる「勅語」に最敬礼をしなかったために、内村に対して激しい糾弾が投げつけられた事件。翌二月、内村は同校を辞職している。内村を非難した井上も、じつは、この教育勅語に不満をもっていた。東大退職(一九二三年)後、井上は、大東文化学院総長、貴族院議員などを歴任していたが、『我が国体と国民道徳』で「教育勅語」の不十分さを訴えたことで大騒ぎとなった筆禍事件で一九二六年九月にすべての公職から退いた(見城悌治[2008]、一五一、六九ページ)。

(7) その信憑性については保証できないが、アリストテレスの「アリストス」(aristos)は「最高の」、「テレス」(telos)は「目的」という意味をもつ。つまり、「最高の目的をもつ人」というのが「アリストテレス」という名前の由来であるとする説もある(“Behind the Name: Meaning, Origin and History of the Name Aristotle,”behindthename.com)。「古代ギリシャ語の名前」の一覧表と、それぞれの名前の原義が示されているwebサイトがある(  http://kuroudotowershax.web.fc2.com/shiryo/greek.htm)。

(8) これも信憑性の確保が難しい事柄であるが、アリストテレスのきちんとした底本がない理由として有力な見解なので紹介しておきたい。アリストテレスがアレキサンドロス大王(Alexandros, BC356~BC323年)の家庭教師をしていたことは周知のことであるが、アレキサンドロスの急逝(紀元前三二三年)によってアリストテレスがアテナイ(Athenai)から逃れ、自らの原稿の刊行もできなかったために、アリストテレスは死後一八〇年間に亘ってアカデミズムの世界から忘れられていた。
 アテナイにおけるリュケイオン(Lykeion)というアリストテレスが主宰していた学問塾での穏やかな学究生活は、アレキサンドロスの非業の死によって一二年間で中断され、アリストテレスは、マケドニア(Makedonia)側に立つ権力者であるとして、それまでマケドニアに支配されていたアテナイ市民からの厳しい批判の眼にさらされ、アテナイの神々を侮辱したとの言い掛かりを付けられ、アテナイを去らねばならなくなった。アレキサンドロスの逝去の年にアテナイを脱出したことからも、かなり緊迫した雰囲気があったのではないかと想像される。脱出先は、彼の母親の故郷、エウボイア(Eúboia)島のカルキス(Khalkis)である。その時のアリストテレスの年齢は六一歳であった。そして翌年(紀元前三二二年)アリストテレスは六二歳の生涯を閉じた(   http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/aristotle/aristotle.html)。

 病床にあったアリストテレスは、膨大な原稿を小アジアのスケプシス(Skepsis)にいたネレウス(Nereus)という人に託したが、ネレウスの一族は没収を怖れて、原稿を洞窟の中に隠してしまった。そして原稿はそのまま放置され、その存在そのものも忘れられてしまった。

 アリストテレスの死後一八〇年ほど経った紀元前七〇年代になって、ローマ軍とポントス(Pontus)王・ミトリダテス六世(Mithridates VI)が戦ったときに、アペルリコンApelikon)というポントス側の士官により発見されたと伝えられている(Allan, Donald James[1952]の見解)。その後、アリストテレスの膨大な著作は、戦利品としてローマ軍に渡り、結局、ローマでロドス(Rhodes)島ののアンドロニコス(Andronikos)という学者の手で整理された(しかも手が入れられて)写本が出回るようになった。「メタ・ピュシス」という用語は、アンドロニコスの造語である。そのせいもあって、アリストテレスの著作は、厳密には信頼できないものとされている。しかも、現存するもっとも古いギリシア語の写本は九世紀のものである。その意味で、アリストテレスの正確な原本は存在していない可能性がある。少なくとも、ヨーロッパ世界では、アリストテレスはルネッサンスまでは完全に忘れられていたのである。
 一二 世紀にイスラム学者のイブン・ルシュド(Ibn Rushd, 1120~98年)が、残されたアリストテレスの著作を評価して研究した。これが、ルネッサンス期のキリスト教に流れ、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)をはじめとするスコラ学派(Scholatics)という人々に受け継がれた(http://awareness.secret.jp/indexnews.shtml)。
       
 引用文献

井上哲治郎・有賀長雄[1884]、『改訂増補哲学字彙』東洋館。
于崇道[2008]、于臣訳「東アジアの哲学史上における西周思想の意義」『北東アジア研究』第14・15合併号。
『易教』(上・下)[1969]、高田眞治・後藤基巳訳、岩波文庫。
小泉仰[1989]、『西周と欧米思想との出会い』三嶺書房。
小泉仰[2012]、「西周の現代的意義」『アジア文化研究』第38巻。
薩摩藩学生高橋新吉・前田正穀共編[1869]、『改正増補和訳英辞書』(『英和対訳袖珍辞書』
柴田昌吉・子安峻[1882]、『増補改訂英和字彙第二版』日就社。
西周[1960]、大久保利謙『西周全集〈第1巻〉哲学篇』宗高書房。
見城悌治[2008]、「井上哲治郎による『国民道徳論』改訂作業とその意味」『千葉大学人文研究』第三七号。
周敦頤[1938]、西晋一郎・小糸夏次郎訳『通書』岩波書店。
Allan, Donald James[1952], The Philosophy of Aristotle, Oxford University Press. 邦訳、アラン、D・J.、山本光雄訳『アリストテレスの哲学』以文社、一九七九年。

御影日記(14) 金融権力盛衰史(9)─3. カントの道徳論(4)

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                         本山美彦(京都大学名誉教授)

1 「形のあるもの」と「形のないもの」

 ものを考える方法には二種類あるとカントは理解している。形のあるものに拘り続けて考え抜く方法と、形には拘らず考え方そのものの道筋を追う方法である(1)。

 形のあるものに拘り続けるものとして、カントは物理学を挙げている(Kant, Immanuel[1785]、邦訳、五ページ)(2)。物理学は自然の法則を考える学問である。自然は形があるのでそれを研究する物理学がこの部類に入れられるのも当然であろう。物理学が自然学とも呼ばれてきたのもそのためである。

 ところがカントは、倫理学をもこの部類に入れている。倫理とは形がないのではないか?それなのにカントはなぜ倫理を形のあるものとして理解したのであろうか?

 カントは、形の中に経験を含めている。経験とは現実世界を生きていくさいに出会うことなので、現実世界の産物として形があるものと位置付けられるのであろう。経験から人の意志が生成されてくる。その意味で意志は形をもつ。意志を研究する倫理学はその意味において形をもつ領域の学問である(同、五~六ページ)。

 ただし、意志は自然とは異なる。自然は物理的な法則に従っているという点で自らの意志をもたない。つまり、自分の外に存在する法則によって拘束されている。人の意志は自然の法則に拘束されていない「自由な」存在である。この意思の「自由」がカント哲学では最重要の位置を占めている。

 人の意志が自由な存在であるといっても、自由があらゆるものから拘束されていないというわけではない。人の意志には、「そうなるべきもの」(ゾルレン、sollen)という拘束がある。「あるもの」を「なるべきもの」にさせる法則がある。その法則とは「道徳」である。道徳に従う人の意志が「なるべきもの」を創り出す。法則を研究するということにおいて、自然の法則を研究する物理学(自然学)と道徳哲学は同じである。

 カントが面白いのは、道徳哲学が「そうあらねばならない」といったことのみを研究するのではなく、必ずしも「そうならない」という事態が発生する理由も研究対象にしなければならないといい切った点にある(同、七ページ)。

 形のないものを研究するのが「論理学」である。それは、ものの考え方を経験知に拘束されずに「考え方」全体(思惟一般)を整理するものである(同、六ページ)。

 以上の説明によって、カントは、古代ギリシャ哲学が「物理学」、「倫理学」、「論理学」の三つに分かれていた理由を読者に理解させた。

 カントは、古代ギリシャ哲学が三つに分類されることの妥当性を説明した後、「哲学」(フィロソフィ)と「形而上学=純粋哲学」(メタフィジクス)との区別に進む。

 古代ギリシャの哲学は「フィロソフィ」である。しかし、これからの哲学者は、その「フィロソフィ」を「メタフィジク」(純粋哲学)にまで高めるべきである。「純粋」という言葉を、カントはあらゆるものにの適用できるという意味で使用している。経験的な部分だけに留まるのではなく、経験から超え出た「アプリオリ」によって導かれる普遍妥当性を目指すのが「純粋哲学」=「形而上学」(メタフィジク)であるとカントは理解する(同、七~八ページ)。

 2. 『道徳形而上学原論』の邦訳による上記の該当個所

 『道徳形而上学原論』の邦訳者、篠田英雄の訳は正確である。随所に配置されている訳者解説も素晴らしい。私は、カントの数ある訳書では篠田訳をもっとも重宝している。しかし、意訳がタブーである学術書の宿命で、哲学の訳書の文章は例外なく晦渋である。カントの邦訳も例外ではない。そのこともあって、哲学の門外漢がカントの邦訳を読む苦労はあまりにも大きい。以下、前節で依拠した篠田の邦訳を掲載させて頂く。ポイント毎に個条書きにする。


 ①(物理学、倫理学、論理学といった古代ギリシャ哲学の)「区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、格別訂正すべき点はないと言ってよい」(同、五ページ)。

 ②「いっさいの理性認識は─実質的であって、なんらかの対象を考察するものであるか、それとも形式的であって、対象の差別にかかわりなく、悟性や理性そのものの形式と、思惟一般の普遍的規則を攻究するものであるか、二つのうちのいずれかである、この形式的哲学は、論理学と呼ばれる、これに対して実質的哲学は、一定の対象と、これらの対象が従っているところの法則とを研究するものであるが、この哲学はまた二通りに分かれる、これらの法則は自然の法則であるか、それとも自由の法則であるか、両者のいずれかだからである。そして自然の法則に関する学は物理学であり、また自由の法則に関する学は倫理学である、なお物理学は自然学とも呼ばれ、また倫理学は道徳学とも呼ばれる」(同、五~六ページ)。


 ③「論理学は、経験的部分を含むことができない。それは─思惟の普遍的、必然的法則の根拠は、経験から得られたものであってはならないということである。もしそうだとしたら、そのような学は論理学ではないだろう、およそ論理学は、悟性あるいは理性にとって、いっさいの思惟に例外なく通用し、またこれらの思惟において直接に証示されねばならないような規準でなければならない」(同、六ページ)。

 ④「これに反して自然哲学と道徳哲学とは、いずれも経験的部分をもつことができる、自然哲学は、経験の対象としての自然に対して、また道徳哲学は人間の意志に対して、それぞれその法則を規定せねばならないからである、なおここで人間の意志とは、自然によって触発される限りにおける意志を指している」(同、六~七ページ)。

 ⑤「ところで自然哲学の規定せねばならない法則とは、いっさいのものがそれに従って生起するような法則である。また道徳哲学の規定せねばならない法則とは、いっさいのものはなるほどそれに従って生起すべき(sollen)であるが、しかし、道徳哲学においては、この生起すべきものが実際にはしばしば生起しないこともあるような場合の諸条件をも併せ考えるのである」(同、七ページ)。

 ⑥「およそ哲学が、経験から得られた根拠にもとづく限り、そのような哲学は経験的哲学と呼ばれてよい。しかしア・プリオリな原理にもとづいてのみその緒論を述べるところの哲学は、これを純粋哲学と呼ぶことができる。ところでこの純粋哲学が、まったく形式的な学であれば、論理学と呼ばれるし、またもっぱら悟性の一定の対象を論じるような学であれば、それは形而上学と呼ばれるのである」(同、七~八ページ)。

 以上が、前節の叙述で依拠した元の邦訳である。訳は正確である。しかし、内容を理解することは容易ではない。このような文章を晦渋な文というのであろう。私などは、この種の文章に接する度に読むことを放棄したくなる。しかし、放棄できないのは、晦渋な文章を理解しないことには、論理思考が身に付かないと信じるからである。事実、内容的には珠玉そのものである。カント哲学の邦訳書をパソコンの操作入門書(マニュアル)になぞらえるとまことに訳者に失礼ではあるが、私はどうしても、初めてパソコンに取り組んだときのマニュアルの文章の意味不明さに悲鳴を上げたことを思い出す。それでもマニュアルを手放さなかったのは、ただパソコンを使いこなしたかったからである。

 

 注

 

(1) このような俗っぽい表現をすれば哲学の専門家の眉をひそめさせることになることは重々承知している。私は日本の哲学者たちが日本の近代社会に果たした貢献を心より尊敬している。しかし、私は、松岡正剛の次の言葉に共感を覚える。


 「(参考)アリストテレスの全著作については岩波の全17巻の全集がすべてで唯一であるが、その他いろいろ翻訳が単立しているほか、中公の「世界の名著」や筑摩の「世界古典文学全集」のたぐいでも主要なものが読める。解説書も田中美知太郎、出隆、西谷啓治、藤井義夫をはじめ、戦前からけっこうな量が出ているものの、本書の岩波文庫版『形而上学』の出隆の解説がそうであるように、一般読者には何を書いているのかほとんどわからないものが多い。では、何か適当な解説書があるかというと、これが見当たらない。いろいろ遊んでいるうちに何かを発見するしかないはずである」(「松岡正剛の千夜千冊、思構篇、二九一夜、二〇〇一年五月一四日、『アリストテレス、形而上学、上・下』岩波文庫、一九七九年、http://1000ya.isis.ne.jp/0291.html)。

(2) カントの原著は「アカデミー出版、カント全集」(Immanuel Kants Gesammelten Werken)が標準的に使用されている。これは全二二巻からなり、著書が一~九巻、書簡が一〇~一三巻、手記が一四~二〇巻である。ただし、本稿では、異なる版も使用している。


 引用文献

Kant, Immanuel[1785], Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Immanuel Kants Gesammelten
     Werken, Band IV. 邦訳、カント、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』岩波文庫、
     二〇一二年(第七〇刷)(一九六〇年第一刷、一九七六年第二〇刷改訳)。

阪神淡路大震災より19年

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