三 セオドア・ローズベルトの対日意識を変えさせた朝鮮総督府による宣教師弾圧
米国人の反日感情を高めた原因の一つに朝鮮総督府による米国人宣教師弾圧があった。米国のアジア進出は、キリスト教の布教を軸にしたものであった。
米国政府は日本による韓国支配を認めてはいたが、米人宣教師を敵視する朝鮮総督府の行動には神経を尖らせていた。米人宣教師たちが反日運動を煽っているのではないかという朝鮮総督府の疑念に、米政府は危惧していたのである。事実、米国人宣教師の多くが朝鮮の独立運動に巻き込まれていたし、日本政府の米国人宣教師への警戒感は強くなっていた。
こうした事情を反映して、韓国併合時に米国務長官であったハンチントン・ウィルソン(Huntington Wilson)が米国駐日大使のトーマス・オブライアン(Thomas J. O'Brien)に併合後の対宣教師政策を日本政府に質すように指示した(Wilson[1911], pp. 320-21)。それを受けたオブライアンが、当時の外務大臣、小村寿太郎に質問したところ、小村は、一九一〇年一〇月六日に返事し、宣教師による布教活動とミッション教育については、従来通り継続させると明言した(小村[一九一〇]、七一一〜一四ページ)。
しかし、キリスト教の布教活動が日本政府によって弾圧されるのではないかとの、ウィルソンの危惧は的中した。小村の明言にもかかわらず、多数の韓国人クリスチャンが、初代朝鮮総督、寺内正毅(てらうち・まさたけ)暗殺計画の容疑で逮捕されるという事件が一九一一年に発生した。暗殺計画は一九一〇年の寺内の朝鮮赴任時を狙ったものであった。七〇〇人が逮捕され、朝鮮総督府によって一二二人が裁判にかけられ、うち、一〇五人が重労働の卿を科せられた。最終的には六人のみ有罪確定となり、それも一九一五年に特別放免された。これがいわゆる[一〇五人事件」である(尹[一九九〇]、参照)。
この事件は日本の官憲によってでっち上げられたものではないのかとの疑惑が、当時もいまも囁かれている。米国の長老教会系(Presbyterian)の教団は、「韓国でっち上げ事件」(Korean Conspiracy Case)として、「一〇五人事件」を糾弾するキャンペーンを米国と韓国で直ちに展開した。
米国人宣教師たちの動きが米国民の対日感情を悪化させる端緒になった。
ソウル(Seoul)にいた分離派長老教会病院(Prebyterian Severance Hospital)理事長のアビソン(O. R. Avison)、平壌(Pyongyang)にいた長老派宣教師のサミュエル・モッフェット(Samuel A. Moffett)、北の平安(Pyong-an)北道の成川(Seoncheon)にいた長老派宣教師のノーマン・ウィットモア(Norman C. Whittemore)の三人が、一九一二年一月二三日、寺内と面会し、韓国のクリスチャンたちの無実を訴えた。しかし、寺内はその訴えに耳をかさなかったという(外務省編[一九三九]、一二八〜三二ページ)。
米国では、ニューヨークを本拠とする米国長老教会海外伝道局長(Secretary of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America)のアーサー・ブラウン(Arthur J. Brown)が精力的に動いた。ブラウンは、日本による韓国支配には好意的な意見の持ち主であったが、それでも、クリスチャンとして「一〇五人事件」への抗議行動に立ち上がった(Nagata[2005], pp. 161-62)。彼には、日本への傾斜とクリスチャンとしての矜恃の狭間で苦しんだことを告白した著作もある(Brown[1919])。
ブラウンは、一九一二年二月、当時の駐米日本大使館の外務書記官(chargé d'affaires)であった埴原正直とニューヨークで面会し、逮捕された韓国人への穏便な対処を懇願した。さらに、数名の長老派教会の牧師とともに、ワシントンで駐米日本大使の珍田捨巳、タフト大統領、フィランダー・ノックス(Philander C. Knox)米国務長官、ウィリアム・サルツアー(William Sulzer)下院外交問題委員会議長とも会っている。ブラウンの説明を聞いたザルツアーは逮捕された韓国人に一時は同情したが、その後で、珍田から説明を受けてからは、その同情心を引っ込めた。しかし、ブラウンの反日感情は強くなるばかりであった。日米関係を考慮して六人を除く他の逮捕者たちが日本の官憲によって無罪釈放された後も、米国長老派教会は事件になんら関与していなかったことを朝鮮総督府に執拗に訴え続けていたのである (Nagata[2005], p. 162)。
ちなみに、「一〇五人事件」は米国の長老派教会によって企まれたものであることを自白させるために、検挙者たちに拷問を加えろと命令したのは、当時、憲兵司令官兼警務総長の明石元二郎(あかし・もとじろう)であった(7)。ただし、拷問はなかったという証言もある(Nagata[2005], p. 163)。
結果的には、最後の六人にも日本当局は恩赦を与えた(一九一五年二月)のであるが、その背景には、本国の政府高官が朝鮮総督に米国宣教師たちの怒りをなだめるようにとの助言をしていたことがある。例えば、枢密院顧問の金子堅太郎が、当時の逓信大臣、前台湾総督府民政長官の後藤新平(ごとう・しんぺい)からの要請を受けて、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)に米国のキリスト教会への慰撫を依頼すると同時に、寺内正毅に事を納めるように諫めている。一九一二から一三年にかけてのことである。恩赦は、当時の首相、大隈重信(おおくま・しげのぶ)の了承による((Nagata[2005], p. 164)。