ペリー来航は,志士達の危機意識を掻き立て、近隣諸国を切り従えて日本の勢力圏を築き、これに拠って列強に対抗するべしとする拡張主義を生むに至った(以下は、吉野[二〇〇四]に依拠している。 http://homepage2.nifty.com/k-todo/bunnmei/eastyourasia/japan/eastajia/seikannronn.htm)。
ペリー来航に対して、列強と和親条約を締結する幕府の姿勢を見て,幽囚中の吉田松陰は書簡の中で「魯(ロシア)・墨(アメリカ)講和一定す。決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし,其の間を以て国力を養ひ,取り易き朝鮮・満州・支那を切り随へ,交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と書き送った。
松陰は、攘夷の主体としての日本,「吾が宇内に尊き所以」「我が国体の外国と異なる所以」を認識すべきだと説いた。松陰によれば、日本の「国体」とは,易姓革命を思想の根本にすえる中国に対して、「万世一系」の天皇統治にある。中国の伝統的政治思想は、「人民ありてしかるのちに天子あり」であるのに対して、日本は「神聖ありてしかるのちに蒼生あり」である。中国における臣下は、自分を認めてくれる主君を求めて去就を決める「半季渡りの奴婢」の如きものであるのに対して、日本の場合は譜代の家臣であり、主人が死ねといえば喜んで死ぬ、絶対的な君臣関係なのだとする(『言志後録』(一六))。
こうした松陰の理念は、遡れば「忠臣蔵」の情感に通じるものであり、近年では、太平洋戦争末期の神風特攻隊に象徴的に表現されたものである。
このような思想に立てば、日本がその「国体」を輝かせていた神功皇后や豊臣秀吉の征韓事業こそ「善く皇道を明かにし国威を張る」もので、「神州の光輝」と称揚されることになる。その意味で、征韓事業が、国体論の基礎に置かれ、日本の使命として遂行されるすべき事業として聖化されることになる。
徳川幕府は、清との間で正式の外交関係を取り結ばなかったが、徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った朝鮮通信使を受け入れていた。その回数は一二回を数えた。その際、両国の交渉は対馬藩を介して行なわれた。
朝鮮国王と徳川将軍が交わす国書の名義が問題であった。朝鮮側は、中国の臣下を示す「朝鮮国王」でもこだわらなかったのであるが、幕府として、それは受け容れ難い。しかし、朝鮮側からすると、日本側の国書も「日本国王」名義のものでなければ対等性が保てない。しかし、日本側の征夷大将軍というのは天皇の臣下の役職であって、将軍が「日本国王」を名乗るのは天皇との関係上、難しい。また、日本側が、「朝鮮国王」と同等の「日本国王」という称号を用いると、日本が中国皇帝の権威を認めることになってしまう。そこで、将軍の国書は「日本国源家光」のような形式にして称号を名乗らず、朝鮮国王からの国書の宛先は「日本国大君」とする形が取られていた。日本による朝鮮宛の国書には、朝鮮国王を「朝鮮国大君」と呼び、徳川将軍と朝鮮国王は台頭の関係であるという配慮を徳川幕府は示していたのである。
しかし、明治維新により天皇が統治権者として復活したので、日朝関係における名分(めいぶん)問題を解決しなければならなくなった。
江戸時代には、徳川将軍と朝鮮国王は対等の関係であった。しかし、王政復古が実現した以上、徳川将軍より上の天皇が、名実とみに最高の統治者になった。とすれば、朝鮮国王と日本の天皇はどういう位置関係になればよいのか。徳川将軍と同等の位置にあった朝鮮国王は、天皇に対して臣下の礼を取るべきではないのか。朝鮮は、『記紀』に記されているように、日本の属国となるべきではないのか。これが、明治に入って解決しなければならない名分問題であった。そして、対馬藩を経由して王政復古を伝える朝鮮国王宛の日本の国書の宛先は、それまでの「朝鮮大君」から「朝鮮公」に格下げにした。このことから、朝鮮は、日本側の王政復古の通知の受け取りを拒否した。征韓論はこうしたことへの日本側の憤りから発生した。朝鮮国王は、日本の最高統治者である天皇の臣下に位置づけなければならなかったのである。王政復古、万世一系、征韓論は、まさにこうした名分論から生じたものである。
清、ロシアと戦争までして領有した朝鮮こそは、王政復古の理論的帰結として日本の権力者たちは了解していたのである。
おわりに
韓国併合から一〇〇年。残念ながら、日本では、この年を契機として、アジアにおける日本の歴史的位置づけと現在の日本の選択肢に関わる大きな討論は巻き起こらなかった。むしろ、日本のナショナリズムの昂揚がマスコミによって煽られた。
韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年、東アジアの海に緊張が走った。尖閣諸島問題もその一つである。尖閣諸島は、日本の固有の領土であるとの声が高くなっているが、沖縄返還後の尖閣諸島には、日本の実効支配を示す標識は整備されず、諸島の中の北小島と南小島の標識が入れ替わっていたことさえも気付かれなかった(『八重山毎日新聞』[一九九五])。
沖縄返還に際して、米国務省は、米国が施政権を有する南西諸島の施政権を一九七二年中に日本に返還すること、南西諸島には尖閣諸島も含まれることと説明した。しかし、「この問題に主張の対立がある時には、関係当事者の間で解決されるべきこと」と、米国は、中国と日本との領有権争いに巻き込まれたくないとの姿勢を示していた(比嘉[二〇一〇]、一四〜一五ページ)。
尖閣諸島が、日本領土であるとの公式見解は、一九七二年三月八日の衆院沖縄・北方問題特別委員会における福田赳夫(たけお)外務大臣(当時)の答弁であった。要約する。
(1)一八八五年以降、調査を継続していた日本政府は、尖閣諸島が無人島で清国の支配が及んでいないことを確認、一八九五年一月一四日の閣議決定で正式に尖閣諸島を日本の領土とした。
(2)日清戦争の下関条約(一八九五年四月一七日締結)では、尖閣諸島には触れられなかった(つまり、清はその時点で尖閣諸島を日本の固有の領土であると認識していた)。
(3)一九七一年六月一七日調印の沖縄返還協定で、施政権の返還対象に尖閣諸島が明示されていた。
(4)尖閣諸島を日本の固有の領土と認定したサンフランシスコ平和条約(一九五一年九月)第三条に、中国は異を唱えなかった。
尖閣諸島が日本の固有の領土であることの根拠を、日本政府は上記のことを繰り返し強調してきた。しかし、その論理にはかなり無理がある。一八九五年の閣議決定は、日清戦争で日本が勝利を確実なものにした一八九五年一月一四日に行なわれたものである上、公然と領土宣言を内外に発したものではなかった。下関条約が四月一七日よりほぼ三か月前の一月一四日にすでに日本が領有していたものだから、戦争で清からもぎ取ったものではないというのが日本政府の見解である。しかし、それは詭弁というものであろう。戦争集結前だが、戦争中にもぎ取ったことに変わりはないからである。尖閣諸島は、戦争でもぎ取ったものである。
上のような事情があるにもかかわらず、多くの日本人がいとも簡単に、「先覚諸島は日本の領土である」と思い込んでしまった。日本人は、東アジア関係史を理解する絶好の機会を見過ごした。メディアがそうした機会を提供してこなかったからでもあるが、日本の歴史教育が教育の体裁をなしていないことがもっとも深刻な問題である。