二 李朝による高麗仏教の特権の剥奪
高麗時代の僧侶には、国王の師となる王師(おうし)とか国民全体の師である国師(こくし)などの最高位の地位などが用意されていた。仏教寺院の田畑は寺領と呼ばれた。王族から膨大な寺領が寺院に寄進され、免税であった(鎌田[一九八七]、一五五ページ)。僧侶には飯僧として食事も無料で供されていた。一〇一八年には一〇万人の僧に食事が供されたという(同上、一五六ページ)。こうした安逸を得るために、農民から僧になる者も多かった。
さすがに、一三二五年には、出家を制限すべく度牒(どちょう)制度が強化された。度牒とは、東アジアの律令制で、国家から僧侶になることを許可した認証状のことである。一定の金や物資を国に納めれば僧侶になることが許されるという制度であるが、これが高麗朝の財政難とともに、強化されて行ったのである。しかし、寺領の拡大や経済力の増大とともに、僧兵が増え、国家権力を脅かすようになった。
高麗時代には、僧科(そうか)という僧侶になる国家試験制度ができた。これは、科挙の制度と平行して実施されていた。また、仏教に関する行事を主管する僧録司(そうろくし)という国家的な代行機関も設けられていた。
王族や、貴族は壮大な仏教儀礼を催した。それは、八関斎会(はっかんさいえ)と呼ばれた。仏教の世界では在家が授けられる八戒という初歩的な戒律がある。これを授けるのが八関会、斎会である。これは外国の要人も招待される大行事であった(同上、一五七〜六〇ページ)。似たような祭りで、少し規模を小さくした国内的行事である燃燈会(ねんとうえ)というものも毎年開催されていた(同上、一六三ページ)。
こうした高麗仏教が次の李朝によって圧迫されるようになったのである。
一三九二年、朝鮮では、李成桂(I Seonggye)が、高麗朝(九一八年建国)を倒して政権を取り、自らを太祖と名乗った。太祖は、二年間は国号を変えず、高麗のままとしていたが、その後、国号を朝鮮(Chosun、一三九四〜一八九七年)に改めた。首都も高麗時代の開城(Kaeson)から漢陽(Hanyang、現在のソウル)に移した。そして、「崇儒排仏」、「事大交隣」、「農本民生」の三つを国家の基本理念とした(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh022.html)。
一つ目の「崇儒排仏」というのは、文字通り、儒教を崇拝し、仏教を排するという政策である。ただし、太祖・李成桂自身は仏教を信じていた。
李成桂の二つ目の基本理念、「事大交隣」とは、大国に反抗してはならないという政策である。それは、「事大主義」と表現された。
「事大」の語源は、『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。孟子は、小国が生き延びるには、天の理を知って、大国に仕えるのもやむを得ないと言った(1)。これが、「事大主義」と言われるものである。この考え方が、漢代以降の、冊封体制、周辺諸国にとっての朝貢体制の口実になっていた。
李成桂は、大国の明との開戦を決定した小国の高麗政権を批判し、「以小事大」こそが、小国が生き延びる道だと唱えて、高麗政権を倒したのである。大国の中国の明王朝は、一三六八年に朱元璋(Zhu Yuanzhang)によって建国されたが、明は李成桂を援助していた。
一六世紀に朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化された。冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠を尽くすのみ」と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策が目的にされてしまった。その姿勢は、李朝末期においてもなお継続され、清皇帝を天子として事大することを名目として、近代化に反対する勢力が存在した。この勢力が事大党と呼ばれた(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/97408/m0u/)。
三つ目の朝鮮の基本理念である「農本民生」は、文字通り、農業を基本とする国民生活の安定を目指すというものであった(http://www.koreanculture.jp/korea_info04.php)。
第三代国王の太宗(Taejong、在位:一四〇〇〜一八年)によって、仏教迫害が開始された。寺領は縮小させられ、僧侶の数も減らされた。剥奪した寺領は国有化された。度牒の制度は厳しくされ、王師、国師も廃止された(鎌田[一九八七]、二〇三ページ)。
第四代国王の世宗(Sejong、在位:一四一八〜五〇年)が儒教を正式に国教に指定した。この王は、ハングルを造った『訓民正音』という勅撰書を出したことで著名な王である。毎年春秋の仲月にに僧侶に『般若経』を読ませて街を巡り、災厄を祓うという「経行」という、高麗のしきたりを、彼は廃止した。多くの教団を整理し、禅宗と教宗に統合させた。僧侶が城中に入ることを禁じた。ただし、晩年の彼は、仏教に帰依するようになった(同上、二〇四〜〇五ページ)。
第九代国王の成宗(Seongjong、在位:一四六九〜九四年)は、尼寺二三寺を破壊し、度牒のない者の還俗を強制した。
第一〇代国王の燕山君(Yeonsan-gun、在位:一四九四〜一五〇六年)は、僧科を全廃した。僧侶のほとんどを還俗させ、都城内の寺社のすべてを廃止した。
第一一代国王の中宗(Jungjong、在位、一五〇六〜四四年)は、燕山君よりさらに徹底して仏教を弾圧し、僧侶を土木工事に使役した。京城の寺院のすべてを廃止した(同上、二〇七〜〇八ページ)。