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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(423) 韓国併合100年(62) 日本の仏教(5)

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 この法案が提出される前年の一九二六(大正一五)年、神社を別扱いとしつつ、宗教を権力支配下に置く研究をする「宗教制度調査会」が日本に誕生している。この会は文部官僚と宗教側代表とによって構成され、文部大臣の任命によるもので、完全な御用団体であった。この会の提言を受けて、一九二七年一月、若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)内閣が、第五二回帝国議会(貴族院)に新「宗教法案」を岡田良平(りょうへい)・文部大臣案として提出した。これが、「第二次宗教法案」と呼ばれたものである。この法案は、非常に厳しいものであった。

例えば、「宗教の教義の宣布・儀式行事の執行が安寧秩序を妨げ、風俗を破り、臣民たる義務にそむくおそれがあると認めた場合には、監督官庁はこれを制限し、または禁止することができ、この処分に従わないときは、文部大臣は宗教団体の設立許可または宗教指定の取り消しをすることができる」とあった(第三条)。

 宗教界は猛反対した。反対する主要な点は六つあった。?文部大臣が宗教そのものを指定すること、?宗教教師の資格を法定したこと、?宗教結社の設置を地方長官の許可事項としたこと、?管長・教団管理者の就職を文部大臣の許可事項としたこと、?寺院・教会の離脱を文部大臣の許可事項としたこと、?「必要ナル処分ヲ為スコトヲ得」などと所轄庁の監督が厳しく罰則が重いことである。

 「第一次宗教法案」の際は仏教側の反対が強かったが、この「第二次宗教法案」では、キリスト教側からの批判が強く、この案も貴族院で審議未了となった。この頃を境として「神社は宗教にあらず」論が、一段と強められるようになったのである。

 日本政府は、「治安維持法」を一九二五年に施行し、反権力運動を厳しく取り締まることになった。それとともに、反権力に傾く可能性のある宗教の統制を執拗に志向することになったのである。

 二度も帝国議会で廃案となった「宗教法案」に代わって、一九二九年、田中義一(ぎいち)内閣の勝田主計(しょうだ・かずえ)文部大臣は、「宗教制度調査会」の協力を得て、「宗教法案」を「宗教団体法案」と改めて、第五六回帝国議会(貴族院)に提出した。
 この法案は、法を適用すべき対象を「宗教」そのものでなく、「宗教団体」にした。信教の自由という建前をかざして、実質的に反権力運動を行う宗教団体の取り締まりを狙ったのである。法案提出の理由には、「国民精神の作興」に貢献する宗教団体の育成を目指すことが挙げられた。

 「大体(この法案)ニ於キマシテ、取締ニ関係イタス事柄ハ成ルベク之ヲ制限イタシマシテ、小サクイタシ、最小限度デ以テ取締ハイタス。寧ロ此宗教団体ノ自治的発達、国家ノ保護、斯様ナルコトニ重キヲ置キマシテ、教化団体トシテ国民精神ノ作興ノ上ニ貢献セシムベキ趣旨ニ相成ッテ居ルノデアリマス」(  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 ここに「国民精神ノ作興」とあるのは、関東大震災直後に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」に出てくる天皇の言葉(詔書)である。しかし、これも、宗教界の抵抗が強く、廃案になった。

 国内には、以後大きな反権力運動が盛り上がった。一九三〇年には、大本(おおもと)教団が、不敬罪、国体変革など「治安維持法」違反容疑により徹底的な弾圧を受けた。これは、大正時代に続く「第二次大本事件」である。一九三六年には二・二六事件。一九三七年には「国民精神総動員運動」が始められた。

 そして、ついに、一九三九年二月、平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)内閣が、貴族院特別委員会に「第二次宗教団体法案」を提出した。その提案理由を平沼総理は次のように述べている。

 「いずれの宗教に致しましても我国体観念に融合しなければならぬということは、是は申すまでもないことでございます。我が皇道精神に反することはできないのみならず、宗教によって我が国体観念、我が皇道精神を涵養すると云うことが日本に行はる宗教として最も大事なことで……これがためには一面においては宗教の向上発展を図るということが必要であります。就てはこれに国家と致しまして保護を加へることは是非やらねばならぬことである。是と同時に宗教の横道に走るといふことは是は防止しなければならぬが、これがためには、これに対して監督を加えることが必要であろうと思います」(「宗教団体法案貴族院特別委員会議事速記録」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 法案の内容も、宗教団体やその教師が行う宗教行為が、安寧秩序を妨げ、日本臣民たることの義務に背く場合は、その宗教行為を制限し、または禁止することができ(「同法第一六条」)、この権限は、寺院、教会、教師に対しては文部大臣から地方長官に委ねられていた(「同法一九条規則五七条」)。文部大臣、地方長官は教派、宗派の管長、教団統理者、教会主管者、寺院住職等を解任することもできた(「同法一七条一項および一九条」)のである。神道一三派はそのままとしながら、仏教の五六派は二八派に、キリスト教の二〇余派は二教団にと強制的に統合させられ、敗戦を迎えたのである(中濃[一九九七]、一三七〜四〇ページに依拠)。

 この、日本の「第二次宗教団体法案」は、一九一一年六月に朝鮮で発布された「寺刹令」と、同年七月に作成された「寺刹令施行規則」(本令、細則ともに施行は、一九一一年九月一日)と非常に極似している。抵抗の大きさから本国の日本では成立しなかった宗教統制が、植民地朝鮮で強引に施行し、ついに、それを戦争の敗色濃厚であった日本に再導入したのである。

 「寺刹令施行規則」は全八条からなり、第一条では住持の選抜方法や交代手続き、第二条では三〇寺に定められた朝鮮の本山の住持の就任には朝鮮総督の許可が必要なことと末寺の住持については地方長官の認可を得ること、等々がが定められた。住持の履歴提出を朝鮮総督府は義務化し(第三条)、住持の任期を三年に限定し(第四条)、反社会的行為をした住持は免職させられることになった(第五条)(朝鮮総督府[一九一一]、二二〜二三ページ)。当時、朝鮮には一三〇〇余りの寺院が残っていたが、そのすべてが朝鮮総督府を頂点としたピラミッド構造に編成替えさせられたのである(韓[一九八八]、七八〜八一ページ)。


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