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野崎日記(424) 韓国併合100年(63) 日本の仏教(6)

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 五 朝鮮の宗教統制

 一九一五年一〇月、「布教規則」(朝鮮総督府[一九一五]、一五四〜五五ページ)が施行された(8)。これは、仏教だけではなく、キリスト教も含む朝鮮における全宗教を対象とするものであった(川瀬[二〇〇九]、三七ページ)。

 この「規則」の重要な点は、各教団の布教管理者の解任権を朝鮮総督が握ったことである。「朝鮮総ハ布教の方法、布教管理者の権限及布教者監督ノ方法又ハ不適当ト認ムルトキハ其ノ変更ヲ命スルコトアルヘシ」(第四条)。

 一九一九年の三・一独立運動に恐怖した朝鮮総督府は、「安寧秩序を妨げる恐れがある」宗教団体への監視を強めるという条項(第一二、一四条)も追加された(朝鮮総督府[一九二〇]、八四〜八六ページ)。

 川瀬([二〇〇九]、三八〜三九ページ)での紹介によれば、一九一七年に朝鮮僧侶が東京に来訪したとき、時の前法主・現如(げんにょ)は次のような歌を詠んだという。



 「一筋に みのりの為めに つくさなん 照る日の本に 心あわせて」

 日の昇る日本のために、日本と朝鮮の仏教徒は力を合わそうというのである。
 同じ年、朝鮮と満州を訪問していた当時の現法主・彰如は次のように語ったという。

 「彼等を完全に教育し、彼等に大和民族の血を入れよ、而して後に初めて教えを説くべし」(彰如[一九一七])。

 朝鮮総督府による一九二〇年の報告によれば、当時朝鮮で活発に布教活動をしていた日本の仏教会は以下の宗派であった。真宗、浄土宗、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、法華宗、臨済宗、黄檗宗。布教所は二三六、布教者数は三三七、寺院数六七、信徒数一四万八〇〇〇人余り、うち、朝鮮人一万一〇〇〇人であった(朝鮮総督府編[一九二二]、一四七ページ)。

 日本の仏教界は思うようには朝鮮人信徒を集めることはできなかったが、それよりも、韓国仏教会に親日派僧侶を多数作ろうとしていたのである。

 朝鮮総督について記せば、初代の寺内正毅(てらうち・まさたけ、在任:一九一〇〜一六年)、第二代の長谷川好道(よしみち、在位:一九一六〜一九年)は武断政治を強行していた。一九一九年の三・一独立運動の攻撃を受け、軍を動員したことの責任を取って辞任した長谷川の後任に就いた第三代の斎藤実(まこと、在位:一九一九〜二七年)は、武断政治を引っ込めて、「文化政治」を掲げ、親日的な僧侶の育成に努めた(姜[一九七九]に詳しい)。

 一九二〇年に、朝鮮総督府から「朝鮮民族運動に対する対策」と題された秘密文書が作成された(国立国会図書館憲政資料室蔵、以下の中身は、平山[一九九二]、川瀬[二〇〇九]より転載)。

 これは、激しくなる一方の朝鮮人による反日運動を治める方策が検討された文書であるが、半日分子を押さえ込む親日分子の育成に朝鮮人仏教徒を積極的に育成しようと提言したものである。要約する。

 <朝鮮の仏教は、李朝によって五〇〇年もの間、圧迫を受け、社会的影響力を大きく失ってきた。しかし、それでも、民間の仏教信仰はまだ根強い。こうした国民の信仰を後押しすることが大事な政策になる>。
 <?そのためにも、寺刹令を改正して、京城に朝鮮仏教を統合する「総本山」を置き、すでにある地方の三〇本山を統括させることにする>。
 <?「総本山」には、親日的な管長を置く>。
 <?「総本山」を支えて、仏教を振興させる仏教団体を育成する>。
 <?「総本山」を支える上記団体の本部は総本山に置き、その支部も三〇ある本山に置く。団体会長と支部会長は、親日的な有徳の人でなければならない>。
 <?支援団体の役目は、一般人民に仏教を広め、仏教によって罪人を悔い改めさせ、慈善事業を行うことである>。
 <総本山、本山、支援団体の本部とその支部には相談役という顧問を置く。この顧問は人格の優れた日本人を置く>(川瀬[[二〇〇九]、三九~四〇ページより転載)。

 朝鮮仏教を支配するために、総督府のお膝元に「総本山」を置き、総本山、本山、仏教支援団体の指導は、すべて親日派でなければならないし、そうした組織のすべてに日本人を顧問として据える、等々を見れば、朝鮮総督府は露骨に朝鮮仏教を自己の権力の膝下に置くことを画策していたことは明白である。

 おわりに


 明治維新直後の権力を後ろ盾とした「廃仏毀釈」による攻撃への記憶が生々しく、攻撃の再来への不安もあったのであろう。日本の仏教界は、海外布教に、日本と現地の政治権力との結びつきを希求していた。

 「江華島条約」締結後、釜山居留地を日本政府が手に入れた一八七七年、大谷派東本願寺は、直ちに奥村円心を現地に派遣して、翌一八七八年、本願寺釜山別院を創建した(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九ページ)。

 奥村円心は、はじめから朝鮮全国の寺院の「総轄」と朝鮮の僧侶の統制を意図していた。一八八〇年一月、奥村円心は、本願寺執事宛に「朝鮮弘教建言」を提出し、次のように述べた。要約する。

 <京城、仁川に本願寺の寺を速やかに建設して、八道(注:朝鮮全土のこと)の寺院を「統轄」(注:多くの機関を一つにまとめて支配すること)する姿勢を示せば、朝鮮政府もこれを無視することができず、呼応するであろう。いまや、本願寺の法の威力によって、八道の僧侶を「風靡」(注:なびき従わせること)する絶好の機会である。この機会を逃してはならない>(柏原編[一九七五]、四八一〜八二ページ)。 

 一八八一年五月一日の奥村の日誌には、彼が朝鮮の政治家や朝鮮仏教界と接触できたのは、キリスト教の拡大を阻止する役割を真宗が担ったからであるとの叙述がある(柏原編[一九七五]、四八五ページ)。

 奥村は、朝鮮の政治家たちとの人脈によって、政治的工作にも従事していた。例えば、開化運動の中心人物であった漢方医の劉大致(Yu De-chi)、劉に仏教思想を吹き込んだ朝鮮の僧侶・李東仁(I Don-in)が奥村を支えた。彼らは、甲申政変の時、金玉均(Gim Ok-gyun )と福沢諭吉を結びつけた人たちである(9)。

 日本仏教界の朝鮮における布教活動が政治権力と結びついていたことが、甲申政変によって、多くの人たちが知ることになり、朝鮮では、仏教そのものへの反発が生まれ、朝鮮仏教界は内部抗争を韓国の独立まで続けることになったのである。


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