三 日本組合教会の朝鮮布教
米国連邦政府は、米国の対外膨張にこうしたキリスト教の海外伝導熱を積極的に利用していた(塩野[二〇〇五]、二六〜二七ページ)。
例えば、一八八五年に『わが祖国』(Our Country)(Strong[1885])という、三〇年間で一七五万部を販売するというベストセラーを出したジョサイア・ストロング(Josiah Strong, 1847〜1916)は、多くの崇拝者を持つ会衆派のスター的牧師であったが、その説教は、米国の膨張を神の摂理であるという内容のものであった。新大陸米国こそが、「出エジプト記」で言及されている「約束の地」であり、米国に移住した人たちは、「選ばれた民」である。米国が打ち出す市民的自由とキリスト教を世界に普及することが米国の義務であると主張したのである(森[一九九〇]、一七〜三五ページ)。そうした、米国市民の義務を遂行すべく、「アメリカン・ボード」は、できるかぎり宗派の壁を越えることを目標にしていた(塩野[二〇〇五]、四八ページ)。
アメリカン・ボードのメンバーとして、日本への布教を試みた人に、ペリー提督の通訳を務めたサムエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812〜84)がいる(16)。
一八五九年、徳川幕府は、神奈川(横浜)、長崎、函館、新潟、兵庫の五港を開港するや否や、米国
からプロテスタントの宣教師や医師が来日した。英国国教会系の「米国聖公会」(Episcopal Church in the United States of America)からは、ジョン・リギンズ(John Riggins)とチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)、「米国長老派教会」からは、ジェームズ・ヘボン(James Curtis Hepburn)、「米国オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)からは、サムエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown)、 デュアン・シモンズ(Duane B. Simmons)、グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)(17)が派遣されてきた。
アメリカン・ボードは、一八六九年、ピッツバーグ(Pittsburgh)で開かれた第六〇回総会で、日本への宣教師派遣が決議され、ただちに、ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)が派遣された。彼は、ヘボンとともに、聖書の和訳に勤め、各地に教会を設立する運動を組織した。これは、留学中の新島襄が、一八六八年の夏に、アメリカン・ボード幹事のナタニエル・ジョージ・クラーク(Nathaniel George Clark)の家に宿泊した時、日本伝道を急ぐべきだと進言したことが効を奏したものと思われる(竹中[一九六八]、一一〜一三ページ)。
そして、一八七一年、アメリカン・ボードの宣教師、ジェローム・ディーン・デイヴィス(Jerome Dean Davis)が派遣されて、新島襄の同志社創立に協力した(http://www8.wind.ne.jp/a-church/niijima/index.html)。
一八七二年には、日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(後の日本基督教会横浜海岸教会)が横浜に設立された。この教会の受洗者たちが、いわゆる「横浜バンド」と言われている日本のプロテスタントに大きな影響を与えた人たちである(http://www15.plala.or.jp/kumanaza/yokohama.html)。
新島襄(Joseph Hardy Neesima)は、一八七四年にアンドーバー神学校を卒業し、アメリカン・ボードの日本布教担当宣教師に任命され、同年一〇月の同会の第六五回大会で、日本でキリスト教の大学を建設することの必要性を訴え、五〇〇〇ドルの寄付を集め、その年の一一月に帰国した(デイヴィス[一九七七]、四七ページ)。
同じ一八七四年、アメリカン・ボードは、同会として初めて、日本に会衆派の教会を設立した。「摂津第一基督公会」(後の日本基督教団神戸教会)と「梅本町公会」(後の日本基督教団大阪教会)がそれである(http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/およびhttp://www.osaka-church.net/)。
新島襄は、一八七五年、京都府顧問で、後に自身の岳父になる山本覚馬の援助を受けて、山本の私有地に同志社英学校を創立した。同年、アメリカン・ボードの宣教師たちによって、私塾・「神戸ホーム」(後の神戸女学院)が設立された。以後、日本の会衆派牧師によって、会衆派教会が各地で設立された。「西京第一教会」(後の同志社教会)、」西京第二教会」(京都教会)、「西京第三教会」(平安教会)、「浪花公会」(日本基督教団浪花教会)、「安中(あんなか)教会」(注(18)で説明、日本基督教団安中教会)等々である(川上純平「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史(1)第三章、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2008a3.htm)。
アメリカン・ボードに所属する牧師たちは、次々とミッション・スクールを建設した。一八七六年には私塾の女性だけの「京都ホーム」(後の同志社女子大学)、一八七七年には「梅花(ばいか)女学校」(後の梅花学園)、一八八〇年に女性伝道者養成を目指す「神戸女子伝道学校」(後の聖和(せいわ)大学、現在、関西(かんせい)学院大学と合併)、一八八六年には、「宮城英学校」(後の東華(とうか)学園)、「前橋英和女学校」、岡山に「山陽英和女学校」(後の山陽学園)、「松山女学校」(後の松山東雲(しののめ)学園)が設立された。一八八九年に「頌栄(しょうえい)保母保育所」、「頌栄幼稚園」が神戸に設立された(川上、同上(2)、http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2009i.htm)。
一八八六年、新島襄が中心となって、会衆派教会は、「日本組合教会」(通称、組合教会)を結成した。拠点は「同志社教会」が担った。同志社教会は、その年に現在の同志社大学構内に移転した西京第二公会が名称変更したものである(http://www012.upp.so-net.ne.jp/doshi-ch/intro.html)。一九四一年には「日本基督教団」結成に参加し、合同した(http://www.uccj.or.jp/history.html)。組合教会で活躍したのが、海老名弾正(えびな・だんじょう、一八五六〜一九三七年)であった。この海老名が、組合教会の朝鮮伝道を推し進める中心人物であった。海老名は、一九二〇年〜二八年、同志社総長を勤めた。
海老名は、朝鮮を日本に合併させるべきだという考えの持ち主であった。朝鮮総督府は、最初は、長老派の日本基督教会に朝鮮布教を依頼したが、米国の長老派教会がすでに伝道を行っていたので断られ、組合教会の海老名に依頼し直し、了承され、海老名の直弟子である渡瀬常吉(わたせ・つねよし、一八六七〜一九四四年)がその任に当たることになった。韓国併合の二か月後の一九一〇年一〇月に渡瀬が牧師を務めていた「神戸教会」で、日本組合教会の第二六回定期総会で、朝鮮人への布教が決議され、渡瀬が主任に推薦された。その決議文を要約する。
<いまや、日本の国運は大発展している。国内外でキリストの福音を伝道し、神国建設の大業に貢献すべきである。新たに加えられた朝鮮同胞の教化を行うことが、キリストを信じる日本国民の大きな責任である>(『基督教世界』一九一〇年一〇月一三日付、松尾[一九六八]、七ページより引用)。
渡瀬は、そに著書において、<朝鮮人を日本国民化することが大切で、この責務は組合教会だけでなく、日本人全体が担うべきものである>と訴えた(渡瀬[一九一三]、一〇〜一一ページ)。