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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(444) 韓国併合100年(83) 日本のキリスト教団(6)

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(1) 会衆派教会(congregational church)とは、一六世紀に生まれた信者の直接民主主義で運営される教会組織。会衆とは、人々が集うこと。この派の教会に、契約関係(covenanted)で人々が集う。各教会は世俗的権威自由であり、ただ神の感化によって信仰の規範を定め、実践するということを目標としている。組合教会とは、会衆派教会の日本での名称。日本では、明治四三(一九一〇)年以後、「日本組合教会」として発足した。一九四一年六月二四日、プロテスタントの各派(三三派)と合同して「日本基督教団」(United Church of Christ in Japan」)になった(http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/doctrines.pdf)。

(2) カルヴァンは、北フランスに生まれ、パリ大学などで法学・神学・人文主義などを学ぶ。当時ルターの宗教改革の影響はフランスに及び、フランスでもルター派が広まっていた。彼の福音主義(Evangelicalism)は危険思想として弾圧されていた。福音主義とは、キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとし、律法主義や儀礼・制度・伝統などを軽視する立場である。カルヴァンはパリを追放され(一五三三年)、後にスイスの新教都市バーゼルに逃れた(一五三四年)。バーゼルに逃れたカルヴァンは、その地で有名な『キリスト教綱要』(Christianae Religionis Institutio)を著した(一五三六年)。その中でカルヴァンは、<魂の救済は、人間の意志によるのでなく、神によって最初から決められている>との考えか派を示した。これは、「予定説」(predestination)と呼ばれている。ただし、「予定説」といっても宿命的なものではない。<人は信仰によって「自分は救われる」と確信することができる。また救済の確証を得るために、人は禁欲的な生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべし>というものであった。『キリスト教綱要』によって一躍有名となったカルヴァンは、ジュネーヴに改革者として迎えられて宗教改革に従事したが(一五三六年)、一時反対派によって追放されてストラスブルクに赴いた(一五三八年)。後に再び請われてジュネーヴに帰り(一五四一年)、以後死ぬまで同市に留まった(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/12-kaikaku2.html)。

(3) 長老派は宗派によって定義が異なるので、簡潔な解説はできないが、上記、注(1)で説明した会衆派のような信者全体の直接民主主義ではなく、各教会内の人望の篤い信者代表が長老と呼ばれ、そうした長老が発言力を高くする教会の統治の仕方を踏襲する派のことを指す(http://www.church.ne.jp/yurinoki/choro.html)。

(4) カートライトは、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジ(Trinity College, Cambridg)で神学を専攻していた。英国国教会はローマ・カソリック教皇の支配から脱したものの、それは単に教会運営が英国王の支配下に置かれただけで、体制はカソリックそのものであった。カートライトは、英国国教会の監督制を厳しく批判し、教会の国家からの自立を訴えていたために、つねに弾圧にさらされていた( http://enrichmentjournal.ag.org/200501/200501_120_cartwright.cfm)。

(5) ロビンソンは、一五九二年よりケンブリッジ大学のコルプス・クリスティ・カレッジ(Corpus Christi College)で学び、その後は同カレッジで教壇に立った。一二年間の学生・教員生活を経て、ノリッチ教会(Norwich Church)で牧師となるが、国教会の方針に従わなかったため解職された。その後もイングランドにとどまって分離派(英国国教会から分離・独立する)の教義を広めようとしたが、ジェームズ一世(James I)の治世の宗教的抑圧に耐えかねて、オランダへの移住を計画した。一六〇七年の脱出計画は失敗に終わり投獄されたが、翌一六〇八年に再び脱出を試みて、信徒とともにオランダのアムステルダムに渡った。しかし、華美な国際都市アムステルダムは、教団にとって望ましくないと考え、ライデンにその拠点を移した。その後、教団の行き詰まりを感じたロビンソンは、「ヴァージニア・カンパニー」(Virginia Company)の計画に乗って、北米大陸に移住しようとした。この会社は、「プリマス会社」(Plymouth Company)と「ロンドン会社」(London Company)との合弁会社(joint stock company)であり、北米植民地建設を目的として一六〇六年にジェームズ一世に勅許されたものである(http://www.virginiaplaces.org/boundaries/boundaryk.html)。

 ロビンソンは、「プリマス会社」と契約し、米大陸への移民を計画した。当時の船体では全員の信徒を一度で北米入植地へ運ぶことができなかったため、段階的に渡航することになり、高齢であったことや残った信徒をまとめるため、ロビンソンはライデンにとどまった。一六二〇年、まず先発隊が「スピードウェル(Speedwell)号」に乗って、イングランド経由で米大陸へと目指した。しかし、その途中で船が故障したため、イングランドから合流したもう一隻の船であった「メイフラワー(Mayflower)号」に乗り換えることになった。先発隊は多くの苦難を乗り越えて、植民を果たした「ピルグリム・ファーザーズ」(Pilgrim Fathers=巡礼始祖)と賞賛されるようになった。「巡礼始祖」という言葉は、『新約聖書』の「ヘブライ人への手紙」第一一章第一三節の叙述にちなむものである。
 しかし、留意しなければならないのは、ニュー・プリマス(後のニュー・イングランド植民地)を建設したのは、ピューリタンだけでなく、ヴァージニア会社の経営事業に参加すべく、入植者の半分はライデンから乗船した非ピューリタンのオランダ人であったということである(http://www.nd.edu/~rbarger/www7/puritans.html)。

 また、ピューリタンだけに限って言っても、指導者のロビンソンが不在のため、牧師を欠いた状態でその共同体を運営しなくてはならなかった。ロビンソンは、その後、米大陸への渡航を果たせぬまま、一六二五年に病死した(http://www.pilgrimhall.org/psnotenewpilgrimpuritan.htm 、大西[一九九八]、綾部[二〇〇五」。

(6) マサチューセッツという名は、当時の現地のインディアン部族の名で、「大きな丘のある所」の意味を持つ(http://www.holisticoptions.org/)。また、マサチューセッツの植民地開拓は、ピューリタンたちが出資し、イングランド国王に多額の支払いをして、国王から勅許を得て設立された合資会社のマサチューセッツ湾会社が独占権を持っていた。つまり、教会員でなければ、植民地建設の利益を分配されることがなかったのである。一般的には、会社の株主のみが「自由民」であると定義されていた(後述のように、マサチューセッツ湾殖民会社は自由民の資格を緩和した)(http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo11_2.htm)。

 会衆主義ピューリタンの内、国教会からの完全な分離を主張する分離派ピューリタンがプリマス植民地へ、国教会からの分離は主張しないものの教会改革の徹底を主張する非分離派ピューリタンが、マサチューセッツ湾入植地へと移住し、プリマスをはるかに上回る大規模な植民地建設に着手した。移住者の中には、ジョン・コットン(John Cotton,1584-1652)、トーマス・フッカー(Thomas Hooker,1586-1647)、ジョン・ダベンポート(John Davenport,1597-1670)といった当時のイングランド・ピューリタニズムの中心的な指導者たちも含まれていた。牧師達を慕い、時には教区民が一斉に集団移住する例もあった。

 マサチューセッツ湾会社は、画期的な植民地経営の方法を採用した。通常、出資者である株主を総会の構成員とするのが本来の経営方法なのだが、マサチューセッツ湾会社は、この構成員の枠を広げた。成人男子の教会員ならば、株を取得していなくても総会の構成員となることができるとしたのである。こうして、植民地では「自由民」の粋が拡大された。総会は、各タウンに土地を分譲し、その土地は、成人男子の自由民に分配される。各タウンでは、タウン・ミーティングがもたれ、その代表が総会に出席し、植民地全体の政治に参加する。これが、「ニューイングランド・ウェイ」と呼ばれたものである。マサチューセッツでは「教会員」が即「自由民」となるので、教会への入会が、肝要となる。新しく教会員となる者には、教会で公に神の救済の恵みの体験、すなわち、回心体験を語ることが求められ、「契約」を遵守することが誓わされる。

 教会員には、ピューリタン信仰と教義を守り、「聖徒」としての道徳的生活が求められた。ジョン・ウィンスロツプ(John Winthrop,1588-1649)が総督として政治的実権を握った植民地建設初期の二〇年間は、「ニューイングランド・ウェイ」はかなり有効に機能していた(http://www.info.sophia.ac.jp/amecana/Journal/17-5.htm)。


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