本山美彦(京都大学名誉教授)
2 ルソーの自己愛論
直感の限界を指摘したルソーは、次に自己保存の情念の検討に入る。自己保存の情念こそが、正義・善と言われる道徳的判断が形成される基礎であることを示すためである。
自己を保存する情念の中のもっとも奥底に座っているのが、自己愛である(Rousseau, Jean=Jacques[1762]、邦訳、中巻、一〇ページ)。情念にはいろいろな種類があるが、もっとも基礎的で自然に生まれてくるのが自己愛である。自己愛が、自分を愛してくれる人に対して愛情を感じ、危害を加えてくる人に対して嫌悪感を抱くようにさせる。そうした感情の繰り返しの中から人間関係を子供は知るようになる(1)。人間関係のからまりが道徳感を生み出すのである(同書、中巻、一四ページ)。
自己保存の情念が愛を生み出すが、人間の成長過程においては、愛は異性に対するものより、友人に対するものの方が先に生じるものである(同書、中巻、三〇ページ)。
自然が、青年の友を愛する友情という情念を育ててくれる。そして、青年に他人の不興を買うことの恥ずかしさも教えてくれる。青年は、自分が他人に当てた苦痛を見て涙を流すようになる(三一ページ)。
「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ」(三二ページ)。
哀れみの心は、自然の秩序では最初の段階の感情に属する(三七ページ)。この感情が、人間の心の中で道徳への尊敬の気持ちを育み、正義と善を理解する理性を確立させてくれる(七三ページ)。逆に言えば、理性による裏付けがないかぎり、正義とか善とかといった道徳は生まれてこない。
このように主張した後、ルソーは、カントに決定的な影響を与えることになる通俗的な道徳理解に対する批判を展開した。
それは、あまりにも有名な「マタイによる福音書」(Κατά Ματθαίον Ευαγγέλιον, Evangelium Secundum Mattheum, Gospel according to Matthew)の理解についてである(2)。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という「マタイによる福音書」の一節は、古代からずっと信じられてきた道徳律であった。これにルソーが疑問を挟み、カントがこれまで人々から無批判に受け容れられてきたこの道徳律が暗黙裏に前提してきた条件を吟味したのである。この点についても後述する。
ルソーは、この格率を忠実に履行する人間が他人にもこの格率を護らせることが実際に可能なのか?他人にそれを護らせる保証はどこにあるのか?を問うた。
ここで、格率という哲学の門外漢には耳慣れない翻訳造語が使われているが、英語ではmaximである。ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646〜1716年)の頃までは、証明しなくても正しいことが自明である命題とか公理のこととされていた。
カントは、これを普遍的な道徳法則ではない個人の主観的規則と理解した。今日は通俗的に行動原理の意味で使われている。ルソー『エミール』の文脈からすれば、ルソーも同じく、カントに先行して、このマタイの道徳律を個人の主観的原則と理解していたようである。つまり、カントは、ルソーの理解を踏襲している。
ルソーによれば、悪人は正しい人をだまして不正な利得をむさぼるものである。悪人は、自分以外の世間の人たちのすべてが善人であることを望む。その方が、人をだまして得られる自己の利益が大きくなるからである(ルソーによる注4、同書、中巻、四〇四ページ)。
つまり、この格率が有効であるためには、行為者が、自らの好意を裏切られてもあえて「人にしてもらいたいと思うことは何でも」しなければならないし、「他人のことなど知ったことではない」という心など存在しないということを前提とする必要がある。後に見るように、無条件にこの格率は成立し得ないといったカントは、ルソーのこの問題提起を全面的に受け止めたのである。
ルソーは、この格率を成立させるものは、「人間の正義の原理」であるとした。善人には溢れ出る豊かな魂の力がある。人が苦しんでいる姿を見ることは、自分を苦しくさせる。自分が苦しくならないために、人は他人に優しく接する。それが自然の掟である。それは理性を超えるものである。自己愛から生み出される他人への愛、つまり、人間としての正義の原理である。倫理学はここに存在根拠を置かねばならない(同書、中巻、四〇五ページ)。
自然の掟は、人間の悟性や理性を超えた次元の領域に存在しており、人間の心に住んでいる自然そのもの、つまり人間の崇高な心のことである(七六ページ)。
人の心の本質を見極めるには、歴史をひもとけばよい。歴史を知ると言っても、書かれた歴史書に頼るしかない。ところが、歴史書は、何らかの思想を基盤として書かれている。すべての歴史書がそうである。中立的な立場で事実のみを淡々と描くという歴史書は皆無に近い(3)。歴史書の多くは、人間の悪い面の叙述に傾き、人間の良い面を描くことがきわめて少ない。歴史書は革命とか大変動に興味を寄せ、平安な温和な政治が支配し、安定していた時代にはそれほど力点を置いてこなかった。そのために、歴史を調べる人たちは、検事的告発者の立場を取りがちである。とは言っても、歴史をすべて肯定的に理解してしまうことも行き過ぎであろう。したがって、歴史を理解するには、告発と弁護の中間を行く裁判官的立場が必要になる(七八〜七九ページ)この姿勢は、対立する二つの命題のどちらも正しいとき、その間に判断の基準を置かねばならないとするカントに受け継がれた。
宗教に対するルソーの懐疑もカントに受け継がれている。フランスからルソーが追放される理由とされた『エミール』第四篇「サヴォアの助任司祭の信仰告白」でのカトリック教会批判に関する叙述もカントに大きな影響を与えた。影響を与えたというよりも、カントはこと宗教理解においては、完全にルソーと一体化している。同じ主張をしても、ルソーが追放され、カントが名声を博したという差異は、環境や時代の差であるのだろうが、宗教批判に関してはカントがルソーそのものであったことは重視されてよい。
注
(1) 社会は、人間を通して見なければならないものであるし、人間も社会を通して見られなければならない。人間を研究するのは倫理学、社会を研究するのは政治学である。この二つは切り離して扱われるべきものではない。本来、人間は平等なものであった。それが自然の理であった。しかし、社会の構造が人間を不平等にしてしまい、権力者が弱者を奴隷にしてしまった。平等であったはずの自然を、人間社会が壊してしまった。しかし、人間の心の中には、他人を平等に扱いたいという自然がまだ保存されているはずだとルソーは主張する(同書、中巻、七四〜七六ページ)。
(2) 「マタイによる福音書」は、『新約聖書』の中の四つの福音書の一つである。「マタイによる福音書」が『新約聖書』の巻頭に収められ、以下「マルコ(Μάρκον, Marcam, Mark)による福音書」、「ルカ(Λουκάν, Lucam, Luke)による福音書」、「ヨハネ(Ιωάννης, Johannes, John)による福音書」の順になっている。ルソーやカントがとくに検討の対象にしたのは、このマタイによる福音書第七章第一二節の「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(Do unto others as you would have them do unto...)の文言である( http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=mat.new&chapter=7&vers=12&flag_back=1)であった。
(3) 偏見なく事実を事実として記述した数少ない歴史家として、ルソーはトゥキディデス(Θουκυδίδης, Thucydides、B.C.460頃〜B.C.395年)(4)を絶賛している。トゥキディデス(『エミール』の翻訳では、トゥキュディデスと表記されている)こそ、真の歴史家である。自分の判断を混じえずに、必要な事実のみを伝えている。彼は自らの「姿を消している」。人は読んでいるのではなく見ているような気持ちにさせられる。ただ、記述が戦争のことばかりであることは困るとこぼしながらも、トゥキディデスの流暢な叙述と素朴さを誉め、「よきヘロドトス」(5)と表現している(同書、中巻、八四ページ)。
(4) トゥキディデスは、紀元前5世紀後半のギリシアの歴史家で、「科学的歴史の祖」と呼ばれる。アテネで成長し,当時のアテネで大きな影響力を発揮していたソフィスト(sophist)(6)運動の洗礼を受けたと言われている。『戦史』の文体や挿入された対の演説の様式にそのことが現れている。ヘロドトスにも会っている可能性がある。紀元前424年に10人の将軍の1人としてペロポネソス戦争(7)に参加したが、自らが指揮する隊が戦場で敗れ、その責任を問われてアテネから追放され、トラキア(Thracia)に逼塞して『戦史』を執筆した。トラキアは、バルカン半島の東側に位置し、戦争の相手方、トルコのペロポネソス陣営の情報をも知り得たことが『戦史』の公平性を作りだしたとされている。トゥキディデスは、歴史研究上の客観性の重要性を強調し、碑文などの1次資料を利用するとともに,伝聞資料は可能な限り自分で再調査して確認した。戦場を訪ねて,シチリアやピュロス(Pylos)など各地に調査旅行した。ヘロドトスや先人の「物語的歴史」に対して,彼は「叙述的歴史」を目標としたのである。このように、『戦史』は「聞く」ものではなく「読む」ものであり,最初から「後世の人にとって有用な記録」となるはずのものであった。それゆえ、主題に関連のない逸話等は極力排除されたのである( http://afro.s268.xrea.com/cgi-bin/Person.cgi?mode=text&title=%83g%83D%83L%83f%83B%83f%83X)。
二〇一三年に入って、中国の経済・軍事的台頭が目立つようになると、中国という新興勢力に旧勢力の米国が恐怖を感じ、それが世界戦争の引き金になるのではないかとジャーナリズムがおもしろおかしく人々の不安をあおっている。「トゥキディデスの罠」と名付けられる。つまり、ペロポソネス戦争の裏には、アテネという新興勢力の台頭に恐怖を感じたスパルタがいるという仮説が、「トゥキディデスの罠」である。この危惧からトゥキディデスは、この戦争が大規模になると予想して『戦史』を書いたとされている。
たとえば、韓国の『中央日報』は、二〇一三年の上海フォーラムに出席した元世界銀行総裁(2007〜2013年)のロバート・ゼーリック(Robert Bruce Zoellick, 1953年〜)と二〇一三年五月二六日に上海でインタビューした記事を翌月の六月七日号に掲載した。そこでは、ゼーリックが、「トゥキディデスの罠」(Thucydides Trap)を引用しながら、米国は、中国というアテネを嫉妬するスパルタにはならず、対話・協力を希求するとして、中国側の不安感の解消に努めたと報じている(http://japanese.joins.com/article/456/172456.html?servcode=A00§code=A00)。
『戦史』の邦訳は複数あり、下記の引用文献で挙げておく。
(5) ヘロドトス(Ἡρόδοτος, Herodotus, B.C.485年頃〜B.C.420年頃)は、ドーリア系ギリシア人(8)であり、小アジアのハリカルナッソス(Halicarnassus、現トルコ領のボドルム、Bodrum)に生まれた。この時代はまだ苗字がなく、出生地―名前という方式が採られるため「ハリカルナッソスのヘロドトス」と呼ばれることもある。地中海世界で最初の歴史書を書いたことから「歴史の父」として尊敬されてきた。最初の歴史書と呼ばれる著作は、英語のhistoryの語源になった歴史書、『歴史』(ἱστορίαι, historiai)である。「ヒストリアイ」は「ヒストリア」の複数形で、「ヒストリア」は「調べたこと」という意味であるとされている。現在に伝わる著作は、全9巻からなっている。紀元前5世紀のアケメネス(Achaemenid)朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間の戦争(ペルシア戦争Greco–Persian Wars)を描いたものである。
ギリシアとペルシアの諍いの原因として、ヘロドトスは、絶対的権力を持つペルシア王と民主的行政府を持つギリシアのイデオロギーの相違が原因であると言及している。有名なマラトンの戦いは第6巻に含まれている( http://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%)。
(6) ソフィストとは「知恵」のある者という意味である。裁判に負けない知恵といった類いの、現実世界で実際に役に立つ知恵を市民に教えることで生計を立てていた人たちを指す。そうした「知恵」を彼らは有料でポリスからポリスへと売り歩いた。彼らにとって、「知恵」は、「現実的な効用をもたらすという有用さ」の限りにおいて尊重されるべきものであって、現実世界でもっとも力を発揮する政治こそが重要となる。しかし、「法」(ノモスNomos)は人間たちが制定した人為的規約に過ぎず、「自然」(ピュシス、Physis)こそ不動の基準であるとしたが、自然を客観的に把握することは不可能である。自然を把握できないのなら、主観的な「法」だけが人間にとっての真理となる。つまり、すべての尺度は人間であると彼らは見なした。彼らは神の存在すら疑った。絶対的なものへの疑いが彼らの信条であった(http://www.saiton.net/ethics/ohanasi5.htm)。
(7)ペロポネソス戦争(Πελοποννησιακός Πόλεμος, Peloponnesian War)は、紀元5世紀にアテネを中心とするデロス同盟(Delian League)とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。
ペルシアの援助を受けたスパルタ側の勝利に終わったが、戦争による痛手から、ギリシャ全体が衰退に向かった(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/200077/m0u/)。
(8) ドーリア人 (ギリシア語: Δωριείς Dories, 英語: Dorians)、または、ドーリス人(ドリス人)。ドーリス人は、アイオリス人(aioleis)、イオニア人(Ionian)と並ぶ古代ギリシアを構成した集団の1つ。紀元前1100年頃ギリシャに侵入し、主にペロポネソス半島に定住した彼らの代表的な都市はスパルタである。
引用文献
Herodotus, trans. by Rawlinson, George,[1942], The Persian Wars by Herodotus, Pars Times.
ヘロドトスの邦訳
青木巌訳[1940-41]、『ヘロドトス・歴史』生活社(上)(下)。
同[1968]、『ヘロドトス・歴史』新潮社(改訂版一九七八年)
同[2004]『ヘロドトス・「歴史」物語』(現代教養文庫)、新版.文元社。
松平千秋訳『ヘロドトス・歴史』(上)(中)(下)岩波文庫、一九七一〜七二年、改訂
版二〇〇六年)
Rousseau, Jean=Jacques[1762], Émile ou de L'Éducation. 邦訳、今野一雄訳『エミール』
(上)、(中)、(下)岩波文庫、二〇一二年(第一刷、一九六二年、第七四刷改刷、二〇〇七年)。
Thucydides, trans.by Smith, Charles Foster[1920], History of the Peloponnesian War, W. Heinemann(London), Harvard University Press(New York).
トゥキディデスの邦訳 青木巌訳『トゥーキューディデース・歴史』生活社(上)(下)、一九四二〜四三年、新版一九四六年。
久保正彰訳 『トゥーキュディデース・戦史』岩波文庫(上・中・下)、一九六六〜六七年。
小西晴雄訳 『トゥーキュディデース・歴史』 <世界古典文学全集11>筑摩書房、1971年。復刊一九八二年、二〇〇五年。
藤縄謙三・城江良和訳『トゥキュディデス・歴史』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 (一・二)、二〇〇〇〜〇三年
小西晴雄訳『トゥキュディデス・歴史』ちくま学芸文庫(上)(下)、二〇一三年(改訂版)。