本山美彦(京都大学名誉教授)
はじめに
道徳(Sitt)とは「真善美」(Truthahn, Güte, Shönheit)の実行に他ならない。しかし、「真善美」という言葉は、その反対の「偽悪醜」(本山造語)を前提にしていて、これがカントの道徳論の基本的立脚点であると、私は思う。
その理由を比喩的に述べよう(1)。お世辞にも清潔とは言えない町角に「街を美しく」、「川をきれいに」、「ゴミは持ち帰りましょう」というステッカーが貼られている光景を私たちはよく見受ける。このステッカーを見て、私たちは「この町は清潔な所で、住民に公衆道徳が行き渡っている」とは、まず思わないだろう。美しさを呼びかけるスローガンを見る人たちの多くは、「本当にこの町は汚い」と思うだけだろう。そもそも、このようなステッカーが貼られている町は、例外なくと言っていいほど汚い。塵一つ落ちていない町にこの種のスローガンは見受けられない。町が清潔か、清潔でないかの差は、自治体の財政力によっても幾分左右されるのであろうが、けっして豊かではない田舎のたたずまいの美しさに対比させれば、あるいは、江戸時代の町屋通りの清潔さを思い起こせば、基本的には、財政力による差違というよりも、公衆道徳の不足している住民が多数住んでいる町ほど汚いと言えるだろう。公衆道徳のなさが、美しいスローガンを多用してしまうのではなかろうか?
晦渋なカントの哲学に入る前に、カントの道徳論を叙情的に要約する作業から、本論文は入ることにするが、気恥ずかしくなるような美しい言葉で道徳の必要性を語ったカントの背後には、既成社会の醜さに対するカントの強烈な怒りがあった。私のこの文章を、町の美化を訴えるスローガンの比喩から書き出したのは、カントの姿勢を強調したいためである。
1. カントの「根源的な誤謬」
カントは、冒すべからずとされてきた人間の「純粋理性」(reinen Vernunft)を批判することに生涯を懸けたと言っても、言い過ぎではない。
理性によって人は正しい判断を下せると断定してしまうのは誤りである。理性には、「根源的な誤謬」(Erbfehler)が根付いている。これは、キリスト教の教義にある「原罪」(Erbsünde)を意識してカントが使用した言葉である。「原罪」は人間が誕生した直後に人間が冒してしまった「根源的な悪」(根源的悪=radikales Böse)である。同じように、「根源的誤謬」は、人間が自然から離れて「理性」に最終的な価値を委ねるようになって冒してしまった結果から生み出されたものである(2)。
理性は、しばしば人間の判断に致命的な誤りをもたらしてきた。天動説はそうした理性の誤謬の典型例であった。あるいは、「努力をすれば報われる」という道徳観に従って努力した結果、報われた成功者たちがしばしば弱者に対して非人道的に振る舞うようになることも、そうした道徳を推奨してきた理性の誤謬である。競争社会で生き延びてきた成功者たちは、ともすれば、他人よりも優位に立とうとする心情を大きくしてしまう。そうした事例を私たちは日常的に見聞きしている。
理性における「根源的誤謬」だけが問題なのではない。人間には悪事を冒すという根源的な悪の心があると、カントは、「真善美」の反対側の存在に論を進める。
人間には、「してはならない。それは悪いことである」との意識はあっても、ついついその悪いことをしてしまうという性癖がある(石川、同上書、二二二ページ)。これが根源的悪である。
根源的悪の存在を示す明白な事例として、先述の「努力をすれば報いられる」といった素朴な道徳観がもたらす競争社会の結果がある。たしかに、人間社会は競争原理から成り立っている。競争原理が人間の素質や才能を開発してきた。その事実は否めない。しかし、競争社会の行き着く先は、傲慢な成功者とひ弱い脱落者の二極分解であり、「万人に対する戦争状態」(bellum omnium contra omnes, thye war of all against all)が支配するトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588〜1679年)の世界である(3)。
しかし、競争に勝ち抜いてきたからといって、人が幸せになるものではない。それは、他国民を征服してきた権力者の末期の悲惨さを思い起こせばよい。国内で権力を掌握してきた俗物の身辺に渦巻く数々の不幸を想起すればよい。いまでも世界の至る所で殺戮が繰り返されている。権力者自身が自ら冒した悪によって必ず襲いかかってくるであろう破滅の瞬間に怯えている。成功者と言えども、自らが冒した悪の存在は充分知っている。
しかし、悪を冒したからといって、良心に痛みが走らない人間はいない。人間の悪が究極的・根源的なものであるほど、「善」を求める気持ちが人間には強くなる。そうした意味において、人間には多くの「善への素質」(Anlage zum Güte)がある。
こうした根源的な悪を根絶することは不可能である。しかし、克服しようという心情は必ず根源的悪の中から生み出されるものである。これがカントの道徳論である。
カントの道徳論の神髄は、神を詰問してはならないという『宗教論』(Kant, Immanuel[1793])に見られる。神(=道徳)は各自の心の中に存在しているものであり、自分の外にある絶対者によって自らの「自由」な心が支配されてはならないとカントは強く主張する。
神に啓示(4)を求めてはならない。神は内なる存在であって、「見えざる教会」である。「見える教会」など意味がないのに、人間はこれを転倒させてしまい、壮大な教会を神の現れだと錯覚して、これにひざまずいてきた。しかし、大事なことは内なる神を見つめ、少しでもそれに近づくことである。そうした行為が道徳を実行することである。宗教もこうした道徳の上に成り立つものである。
このカントの主張は、教会の権威に真っこうから挑戦するものであった。当時の雰囲気からすれば、カントは、絶対者としての神の存在までを疑う無神論であると受け取られかねないものであった。事実、カントは、啓蒙君主として名高かった第三代プロイセン王(在位、1740〜1786年)のフリードリッヒ大王(Friedrich II der Groß, 1712〜1786年)が一七八六年に死去した後を継いだ、啓蒙主義に反対する君主のフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世(Friedrich Wilhelm II, 1744〜1797年)の逆鱗に触れ、一七九四年、カントの『宗教論』(Kant, Immanuel[1793]は発禁処分を受け、公職追放寸前までいった。王の生前中には宗教に関する一切の著述はしないと誓うことでカントは公職追放処分を免れた、その三年後に王が逝去するや否や、カントは宗教批判を再開した(石川文康[2012]、二二九〜三〇ページ)。
その『宗教論』は、「人間における悪」(根源悪)を起点に据えた著作である(石川文康[2012]、二二一ページ)。道徳という考え方が成り立つのは、悪という前提があってこそである。人間には、「善きもの」が何であるかをよく知っている。「根源悪」を根絶することは不可能であろう。しかし、「悪への性癖」を一定程度克服することなら可能である。善への道を目指す「漸進的改革」(Almaliche Reform)こそが道徳である(石川文康[2012]二二一〜二五ページ、参照)。道徳を追求しても、人はそれで幸福になれるわけではない。そうではなく、幸福を受けるに値する人になることを約束するのが道徳である。それが「最高善」(höchst Gut)である。
注
(1) 哲学の世界では、自らが主張する原則の正しさを証明するさいに、数学的な演繹ではなく、比喩(analogy)が多用される。邦訳では「類推」という語句になっているが、カントが多用した'Analogie'も「比喩」と同じ意味である。「アナロジー」とは比例関係を示すもので、「数学的・量的な比例関係ではなく、質的比例関係を意味する。数学の場合、異なった量同士の等しい関係をあらわすのに対して、今(本山注、カントの『経験の類推』)の場合、異質なもの同士の等しい関係をあらわす」(石川文康[2012]、一二六ページ)。厳密な数理的思考にこだわる人には、哲学におけるそうした手法に違和感を覚えられかも知れないが、私も引用した石川文康の見解を是としたい。
であろう。
(2) 石川文康は、「原罪」という言葉をもじって「源謬」(げんびゅう)ちいう訳語をカントの言葉に当てている(石川文康[2012]、二三六ページ)。
(3) 人間社会は、国家の立法による規制がなく、自然状態のままに放置されると、すべての人が戦争状態に陥るとした主張が『リヴァイアサン』(Hobbes, Thomas[1651])で展開された。「リヴァイアサン」(Leviathan)というのは、旧約聖書の「ヨブ記」(5)に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。正式な題名は"Leviathan or the matter, form and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"(『リヴァイアサン、あるいは教会的で市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力』)。
ホッブズは人間の自然状態を、決定的な能力差のない個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争(the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、人間の自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡するという社会契約が必要であると説いた(http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_books/hobbes.pdf )。
(4) 「啓示」(Offenbarung)とは「自らを顕わにすること」(sich offenbaren)である。カントは、奇蹟を示すことで神を認識させようとする教会の手法は間違っている。宗教は人間の心にある神的なものを「顕わにさせる」という役割を担うものでなければならない。歴史的・民族的制約下で雑多な要素を含む宗教を純化して、人間の内なる神(=道徳)が「自ら」を「顕わにする」ようにもっていくことが、宗教に求められる。理性に限界があるとしても、それを追求するのが宗教でなければならないとした(石川文康[2012]、二二六〜二七ページ、参照)。
(5) 松岡正剛は、「旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。・・・しかし、文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した」と述べている(http://1000ya.isis.ne.jp/0487.html)。
『ヨブ記』は42章から構成されている。そのうち、1、2章と42章の一部が、散文形式、他は韻文形式で、散文には敬虔なヨブ、韻文には神に疑問をもつヨブが描かれたいる。
もともとヨブは裕福な名士で、家族、土地、家畜に恵まれていた。そのヨブの信仰を神はさまざまな試練によって試したが、ヨブはつねに信仰の堅固さを見せた。
そこで神は悪魔(サタン)を呼んで、ヨブの財産と体を傷つけて見ろと言った。悪魔から体に腫瘍を植え付けられて体中を掻きむしって苦しむヨブだが、依然として神を恨まない。「神を呪って死ぬほうがましでしょう」と言う妻をヨブは一蹴する。
ヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。ヨブは、次第に神を呪い始める。悪行を働いたことのない自分がなぜ苦しめられるのだと嘆くヨブに対して、友人たちは、ヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見て、ヨブを罵倒する。しかし神に申し立てたいと激高するヨブは、自分が間違っているのなら、その報いを受ける覚悟はあると神に向かって激しい言葉で詰問する。しかし、神は沈黙したままであった。神は、ヨブを裁く権利をもっているのかとの大疑問をヨブはここで吐く。「自分は神とともに裁きの場に出たい」と神を非難する。しかし、それでも神は沈黙したままである。
こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。神に絶望した。もうすべてから自分を離脱させて欲しいと願うようになる。最後は神が登場する。そして神はヨブを一喝する。「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」(本山注、お前は神によって創られたことに思いをいたさぬのか?「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか」(本山注、お前は神と徹底的に争う勇気はないのか?)。そしてヨブは詫びる。「いまや私の眼が貴方を見ました。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。そして、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになり、7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、140歳まで生き長らえた。残酷な神、耐えねばならない被創造者としての人間。憎悪の神への信仰栗苦しさ。人間は、自由意志では生きてゆけないのか?この物語は、 たしかに、旧約聖書物語の白眉であることには違いない。
引用文献
Hobbes, Thomas[1651], Leviathan. 邦訳、水田洋訳『リヴァイアサン、1 ~ 4』岩波文庫、一 九八二年、改訳版、一九九二年。永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサン I ~ II』
中公クラシックス(中央公論新社、二〇〇九年)
Kant, Immanuel[1793], Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft. Kant's gesammelte Werke, Bd. 6, Academie der Wissenschafte, G. Reimer, 1914. 邦訳訳、北岡武司訳『たんなる理性の限界内における宗教、カント全集・第十巻』岩波書店、二〇〇〇年。
石川文康[2012]、『カント入門』ちくま文庫。第一刷は一九九五年。
旧約聖書・「ヨブ記」翻訳[1971]、関根正雄訳『ヨブ記』岩波文庫。