本山美彦(京都大学名誉教授)
1. 「哲学」と「形而上学」
「形而上学」(けいじじょうがく)という言葉は分かりにくい。「哲学」(てつがく)と言えば済むはずなのに、わざわざ難しい表現を使うことに何の意味があるのか?しかし、考えて見れば、「哲学」というのも、分かったようで分からない言葉である。すんなりと理解できるものではない。
そもそも、「哲」の意味は何か?国語辞典、『大辞泉』(小学館)では、「哲」は、道理に明るく、知恵があるという意味であると説明されている。「哲」は名前によく使われる字である。「さとし」、「さとる」、「あきら」と読まれていることにも表されているように、「哲」には仏教的色彩の強い「悟り」の意味がある。とすれば、「哲学」とは、「ものの道理を悟る学問」ということになろうか?
古代ギリシャ語の「フィロソフィア」」(Φιλοσοφία、ラテン語でphilosophia、英語で philosophy)は、知を愛する賢人たちによって追求される学問一般を指す言葉であった。「フィロ」は「愛」、「ソフィア」が「知恵」だという(1)。
「フィロソフィー」(philosophy)に「哲学」という訳語を当てたのは西周(にし・あまね、1829〜1897年)であると言われている(2)。西の盟友に津田真道(つだ・まみち、1829〜1903年)という人がいた。一八六一年の津田の著作『性理論』に西は序文(祓文)を寄せて、「フィロソフィー」に「希哲学」という訳語を当てた(西周[1960]、一三ページ)。ここでの「希」はギリシャを意味する語ではなく、「のぞむ」という意味合いを込めたものである。つまり、「希哲学」は「哲」(さとり)を「希望」(のぞむ)学問というニュアンスの言葉である(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/yakuji.html)。「希哲学」という言葉は、中国北宋時代の儒学者、周敦頤(Chou Tun-i, 1017〜1073年)の『通書』(周敦頤[1938])所収の「志学」第十にある「士希賢」(士は賢(知恵)を希(ねが)う」から採られたようである。「賢」を同じ意味の「哲」に置き換えたのだろう(于崇道[2008]、一四二、四四ページ)。
西は、また、オランダに留学する(一九六二年九月)直前に書いた『西洋哲学史の講案断片』の中で、'philosophy' を「ヒロソヒ」とカタカナで表記し、その用語がソクラテスによって用いられたことを記し、それは「知恵を愛する人」という意味であるとして「希哲学」という語を再度用いている(西周[1960]、16ページ)。
西は、オランダのライデン大学(Universitent Leiden)で指導してもらう予定のシモン・フィッセリング(Simon Vissering, 1818〜1888年)教授に宛てた手紙の中で、あらゆる学問を学びたいと訴え(3)、あらゆる学問の中に'philosophy' を含めている。そして、帰国後に発表した『百一新論』(一八六六〜六七年執筆、一八七四年山本覚馬蔵版として京都で出版)の中で、天道、人道を解明する学問が'philosophy' であり、'philosophy' を「哲学」と訳すと書いた(西周[1960]、二八九ページ)。以来、「哲学」という用語は、中国でも使用されるようになった。
以上で、'philosophy' の意味とその日本語訳「哲学」ができた流れを説明した。次に「形而上学」(μεταφυσικά,metaphysica,metaphysics)の説明に入ろう。「形而上学」という訳語は、まことに違和感のある小難しい用語である。
形而上学の「形而上」は、原語は古代中国語で、『易経』の「繋辞伝」(上)から採られた言葉である(4)。そこでは、「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述がある。ここで使われている「形而上」の「上」、「形而下」の「下」は、時間的な「前後」を表すものである。つまり、「形になる前の(五感で捉えることができない)ものが道であり、形になった後の(五感で捉えることができる)ものが器である」という意味である。もっと分かりやすく表現すれば、「心の中で思い描いた道は、やがて大きな器となって形に現れるようになる」ということになる(舩山俊克のブログ、http://toshikatsu.blogspot.jp/2010/02/blog-post_16.html)(5)。
'metaphysics' の訳語として、当初は「性理学」が当てられていたが(薩摩英学生編[1869])、一八八二年には、「形而上学」という用語が初めて使われた(柴田昌吉・子安峻[1882])。この「形而上学」の訳語は、更に一八八四年、後に東京帝国大学哲学担当教授という権威者になる井上哲次郎(いのうえ・てつじろう、1856〜1944年)(6)によっても採用された(井上哲治郎・有賀長雄[1884])においても現れ、以降、この訳語が日本で定着したと考えられる(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5858942.html)。
それにしても、開国後、西欧の近代的な学問を、その神髄を掴んで早々と日本に導入できた背景には何があるのだろうか?明治時代の先駆的思想家たちの、古代中国の漢学に関する溢れ出るばかりの豊かな素養がそれを可能にさせたことは間違いない。雄藩だけでなく弱小の藩からも抜きんでた一群の俊秀を輩出させた江戸時代の学問体制への研究はもっと進められるべきだろう。
「形而上学」という言葉は、和語としてしっくりとこないものではあるが、以下で説明する「メタフジクス」(metaphysics)の精神を見事に体現した訳語である。黎明期の日本で誕生した訳語が、漢語の本場の中国に大量に採用されたことの経緯もまた研究されるべきだろう。
しばしば誤解されているが、「形而上学」と邦訳されている「メタピュシカ」(μετα ψυσικα, )は、アリストテレス(Áριστοτέλης, Aristotelēs、Aristotle, BC.384〜BC322年)(7)の造語ではない。アリストテレスが「メタフィジカ」という言葉を使用したこともない。ギリシャ語の「自然」(ピュシカ)から生まれた「メタピュシカ」がラテン語表記で「メタフィジカ」(metaphysika)になったことも、アリストテレスには与り知らぬことである。古代ギリシャ語で表記される「メタ」は「後ろ」という意味であり、「メタ」は現在でもそのまま使われているが、「ピュシカ」は、ラテン語で「フィジカ」になり、英語で「フジクス」に転化した。つまり、日本語で表現される「形而上学」は、「自然」の「後ろ」にある学問を指す。たしかに、後世になって、「自然を形創るが、自らは形をもたない」、「経験的自然を超えたより高次のもの」を追求する学問が「メタピュシカ」でるあると理解されるようになった。しかし、誕生時の「メタピュシカ」という言葉は、そのような哲学的内容をもってはいない。真相はもっと単純なことにある。
それは、アリストテレスの著作が、アリストテレスの死後、一八〇年以上経って編集されるようになったとき(8)、世界の根本原因を扱う哲学の一分野を扱ったアリストテレスの著作(『第一哲学』、protephilosophia)が、編集の順序として、自然を扱った一連の著作(『自然哲学』、physika)の後に置かれたからである。つまり、アリストテレスの『形而上学』という著作の題名は、著者のアリストテレスによって付けられたものではなく、後世の編纂者が、「この書は、自然学の後で編集されたものである」というメッセージを出しただけなのに、そのメッセージが、現在の『形而上学』という名称として生き残ったのである。ただし、自然を超えた理性の領域の学問に名を付けることは困難であったので、西欧ではそのまま「メタフジクス」の名称が使われ、わが日本で「形而上学」という大袈裟な名称になったのである。
注
(1) 「(哲学とは)古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追及する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」(『広辞苑』第五版、岩波書店、一九九八年、「哲学」)。
(2) 西周は、英語からじつに多くの日本語訳を日本社会に定着させた。以下、列挙して見る。学術(science and arts)、地理学(geography)、音声学(phnology)、数学(mathematics)、天文学(astronomy)、哲学(philosophy)、生理学(physiology)、法学(science of law)、物理学(physical science)、幾何学(geometry)、動物学(zoology)、芸術(liberal art)、技術(mechanical art)、定義(definition)、真理(truth)、帰納(induction)、演繹(deduction)、命題(proposition)、感性(sensibility)、外延(extension)、内包(intention)、定言(assertion)、意識(consciousness)、感覚(sensation)、、理性(reason)、観念(idea)、総合法(synthesis)、実体(substance)、悟性(understanding)、主観(subject)、客観(object)、分数(fraction)、積分(integral)、微分(differencial)、子音(consonants)、母音(vowels)、博物館(museum)、、社会(society)、印刷術(printing)、新聞紙(newspaper)(小泉仰[2012]、六七〜七〇ページ、参照)。多数の新造語が上のリストにはあるが、リストに挙げた訳語のすべてがそれまでの日本にはなかった新しい概念を表す新造語ではない。しかし、元々日本語にあったものであるとしても、古くからあった日本語の意味を現代風に改めたという西周の功績は非常に大である。
(3) 西は、ライデン大学への留学動機をこの手紙で書いている。(ライデン大学には、日本に)「必要な、また我が国で知られていない統計学、法学、経済学、政治学等の有用な学科が沢山ございます。・・・更に哲学と呼ばれる学問の領域をも訪れなければなりません」とし、哲学者として、デカルト(Rene Descartes, 1596〜1650年)、カント((Immanuel Kant, 1724〜1804年)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedlich Hegel, 1770〜1831年)の名を挙げている(小泉仰[1989]、四三〜四四ページ)。
(4) 『易教』は、文字通り「占い」の教典であるが、陰陽の対立と統合を基本として森羅万象の変化を説く古代中国の宇宙観を集大成したもの。『周易』(Zhou Yi)とも呼ばれる。『書』、『詩』、『礼』、『春秋』と並ぶ儒家の五教典の一つである。本体部分が「教」であり、その解説部分が「伝」である。「伝」は一〇の章から成り、「繋辞伝」(けいじでん)はその一つで、易の成り立ち、易の思想、占い方法等が述べられている(『易教』[1969])。
(5) ちなみに、道元(1200〜1253年)の教えの重要な言葉に「道器」(どうき)がある。「道器」とは、仏の「道」を修行し、仏法を受ける「器」をもつようになった人を指す言葉である(道元『正法眼蔵』(しょうほうがんぞう)75巻本、第16巻「行持」(ぎょうじ)下)。また、蛍山紹瑾(けいざん・じょうきん)禅師(1268〜1325年)の『伝光録』(でんこうろく)第十章「脇尊者(きょうそんじゃ)には、「人々悉く道器なり」という言葉がある。有名な「日々是れ好日なり」という言葉はその後に続いて出てくる(http://teishoin.net/leaf/28.pdf)。
(6) 一八九一年に「不敬事件」を起こした内村鑑三(うちむら・かんぞう、1861〜1930年)を新進気鋭の東京大学文学部哲学科教授であった井上哲治郎が、国家的道徳を重視する立場から厳しく批判し、キリスト教攻撃をしたことは有名である。「不敬事件」というのは、一八九〇年に発布された「教育勅語」を同年第一高等中学校の嘱託教員となった内村鑑三が、一八九一年一月に同校で行われた教育勅語奉読式で、天皇の直筆からなる「勅語」に最敬礼をしなかったために、内村に対して激しい糾弾が投げつけられた事件。翌二月、内村は同校を辞職している。内村を非難した井上も、じつは、この教育勅語に不満をもっていた。東大退職(一九二三年)後、井上は、大東文化学院総長、貴族院議員などを歴任していたが、『我が国体と国民道徳』で「教育勅語」の不十分さを訴えたことで大騒ぎとなった筆禍事件で一九二六年九月にすべての公職から退いた(見城悌治[2008]、一五一、六九ページ)。
(7) その信憑性については保証できないが、アリストテレスの「アリストス」(aristos)は「最高の」、「テレス」(telos)は「目的」という意味をもつ。つまり、「最高の目的をもつ人」というのが「アリストテレス」という名前の由来であるとする説もある(“Behind the Name: Meaning, Origin and History of the Name Aristotle,”behindthename.com)。「古代ギリシャ語の名前」の一覧表と、それぞれの名前の原義が示されているwebサイトがある( http://kuroudotowershax.web.fc2.com/shiryo/greek.htm)。
(8) これも信憑性の確保が難しい事柄であるが、アリストテレスのきちんとした底本がない理由として有力な見解なので紹介しておきたい。アリストテレスがアレキサンドロス大王(Alexandros, BC356〜BC323年)の家庭教師をしていたことは周知のことであるが、アレキサンドロスの急逝(紀元前三二三年)によってアリストテレスがアテナイ(Athenai)から逃れ、自らの原稿の刊行もできなかったために、アリストテレスは死後一八〇年間に亘ってアカデミズムの世界から忘れられていた。
アテナイにおけるリュケイオン(Lykeion)というアリストテレスが主宰していた学問塾での穏やかな学究生活は、アレキサンドロスの非業の死によって一二年間で中断され、アリストテレスは、マケドニア(Makedonia)側に立つ権力者であるとして、それまでマケドニアに支配されていたアテナイ市民からの厳しい批判の眼にさらされ、アテナイの神々を侮辱したとの言い掛かりを付けられ、アテナイを去らねばならなくなった。アレキサンドロスの逝去の年にアテナイを脱出したことからも、かなり緊迫した雰囲気があったのではないかと想像される。脱出先は、彼の母親の故郷、エウボイア(Eúboia)島のカルキス(Khalkis)である。その時のアリストテレスの年齢は六一歳であった。そして翌年(紀元前三二二年)アリストテレスは六二歳の生涯を閉じた( http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/aristotle/aristotle.html)。
病床にあったアリストテレスは、膨大な原稿を小アジアのスケプシス(Skepsis)にいたネレウス(Nereus)という人に託したが、ネレウスの一族は没収を怖れて、原稿を洞窟の中に隠してしまった。そして原稿はそのまま放置され、その存在そのものも忘れられてしまった。
アリストテレスの死後一八〇年ほど経った紀元前七〇年代になって、ローマ軍とポントス(Pontus)王・ミトリダテス六世(Mithridates VI)が戦ったときに、アペルリコンApelikon)というポントス側の士官により発見されたと伝えられている(Allan, Donald James[1952]の見解)。その後、アリストテレスの膨大な著作は、戦利品としてローマ軍に渡り、結局、ローマでロドス(Rhodes)島ののアンドロニコス(Andronikos)という学者の手で整理された(しかも手が入れられて)写本が出回るようになった。「メタ・ピュシス」という用語は、アンドロニコスの造語である。そのせいもあって、アリストテレスの著作は、厳密には信頼できないものとされている。しかも、現存するもっとも古いギリシア語の写本は九世紀のものである。その意味で、アリストテレスの正確な原本は存在していない可能性がある。少なくとも、ヨーロッパ世界では、アリストテレスはルネッサンスまでは完全に忘れられていたのである。
一二 世紀にイスラム学者のイブン・ルシュド(Ibn Rushd, 1120〜98年)が、残されたアリストテレスの著作を評価して研究した。これが、ルネッサンス期のキリスト教に流れ、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)をはじめとするスコラ学派(Scholatics)という人々に受け継がれた(http://awareness.secret.jp/indexnews.shtml)。
引用文献
井上哲治郎・有賀長雄[1884]、『改訂増補哲学字彙』東洋館。
于崇道[2008]、于臣訳「東アジアの哲学史上における西周思想の意義」『北東アジア研究』第14・15合併号。
『易教』(上・下)[1969]、高田眞治・後藤基巳訳、岩波文庫。
小泉仰[1989]、『西周と欧米思想との出会い』三嶺書房。
小泉仰[2012]、「西周の現代的意義」『アジア文化研究』第38巻。
薩摩藩学生高橋新吉・前田正穀共編[1869]、『改正増補和訳英辞書』(『英和対訳袖珍辞書』
柴田昌吉・子安峻[1882]、『増補改訂英和字彙第二版』日就社。
西周[1960]、大久保利謙『西周全集〈第1巻〉哲学篇』宗高書房。
見城悌治[2008]、「井上哲治郎による『国民道徳論』改訂作業とその意味」『千葉大学人文研究』第三七号。
周敦頤[1938]、西晋一郎・小糸夏次郎訳『通書』岩波書店。
Allan, Donald James[1952], The Philosophy of Aristotle, Oxford University Press. 邦訳、アラン、D・J.、山本光雄訳『アリストテレスの哲学』以文社、一九七九年。