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御影日記(10) 金融権力盛衰史(5)―ルソー『エミール』道徳論3)

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                       本山美彦(京都大学名誉教授)

 3 ルソーの自由論

 『エミール』第四編「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(Rousseau, Jean=Jacques[1762]、邦訳、中巻、一五六~四〇六ページ)の司祭(1)は、真実を明らかにするためではなく、聖職者などの高い地位を得るためであったという告白も(同書、中巻、一五七ページ)、カントの「覚書」(2)に通じるものである。

 後のカントがルソーの考え方を忠実に踏襲するのであるが、ルソーは、自由こそが究極の根源であると断言していた。あらゆる行動の根源には自由である存在者の自由な意志がある。自由とはそれより奥には何も存在しない究極の規律である。自由という言葉には人間の主体的な意思が込められている。しかし、必然という言葉には意味がない。そこには人間の主体的な意思の関わりがないからである(同書、一九五ページ)。

 自由とは何をしてもいいということを意味しているのではない。自由は、人間社会全体との位置づけを明瞭に意識して実施される行為の意思のことである。善人と悪人の違いは、前者が全体の見取り図の中で自らの位置を判断するのに対して、悪人は自分をすべての中心に置いて判断するということである(二二七ページ)。悪人の行為は自由の発露とは言えない。自由とは自律の裏付けがなければならないものである。

 つまり、人間の行動の根源には自由があるとするルソーの主張は、自己を律するという面で、かなり厳しい姿勢を堅持したものである。その厳しさが自省を欠いた既成宗教への批判にまで結びつく。

 現実の社会にはいろいろな宗教が並立している。それぞれの宗教には、他とは異なる自分たちだけの啓示がある。それは、神の啓示を伝えると言い張る神の代理人と自称する者たちが、自分が語りたいことのみを信者たちに説いたことの結果である。あらゆる民族が自らの流儀で神の啓示として神の代理人の告げる啓示を受け取った(二三九ページ)。

 それぞれの宗教は、自らの正当性を言い募り、他の宗教を攻撃する。神がそう語ったと言われていることがその根拠である。信者は、神が語ったと言う司祭の言葉に従う。信者は司祭を信じている。だから、信者が信じている宗教のみが正しい。信者はそう主張する(二四一ページ)。

 しかし、その啓示はどこまでさかのぼっても人間の言葉であって、神の言葉ではない(二四四ページ)。
 神は人間に対する嫌悪を示すのか?神は恐怖心を駆り立てるのか?怒り狂い、嫉妬し、復讐を好み、戦争と破壊を行い、威嚇し、責め苦を与えるのが神なのか?初めにただ一つだけの種族を選び、他の種族を追放する神を人間共通の父として信じるべきなのだろうか?私の理性が示す恵み深い神はどこにいるのか?(二四九ページ)

 ヨーロッパには、周知のように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの宗教がある。それらが互いに罵倒し合っている。しかし、これら宗教の聖なる書は、いずれも現在の信者たちが読めない言語で書かれている。ユダヤ教の聖典はヘブライ語で書かれているが、現在のユダヤ人はその言語を解さない。キリスト教徒も、聖典の言語であるヘブライ語も古代ギリシャ語も読めない。イスラム教徒について言えば、トルコ人はもとより、アラビア人ですらマホメット時代のアラビア語を話してはいない。それぞれの聖典は、現代語に翻訳されていると言っても、原典そのものを多くの人が読めない以上、その翻訳の正しさを証明できる人はいない(二五九ページ)。

 ユダヤ教を非難するために、ユダヤ教の内容を調べる人は、キリスト教の世界にあっては、ユダヤ教を誉める書物を入手できない。入手できるのは、ユダヤ教を非難する類いの書物だけである。ユダヤ教を誉める文献がないのは、ユダヤ教を誉めた書物を書いた人が例外なくキリスト教世界から追放されてきたからである。そもそもユダヤ教を誉め讃えたキリスト教徒の書物など、存在できないのである(二六〇ページ)。事実、このような激しいキリスト教批判をしたルソーは国外追放された。

 キリスト教徒たちは、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことをもって彼らを批判する。あるいは、イスラム教徒のトルコ人を同じ理由で間違っていると言う。キリスト教徒はマホメットを崇拝してはいない。トルコ人たちがキリスト教徒に対してイスラム教への改宗を要求すれば、トルコ人たちは間違っているとキリスト教徒から非難されるべきなのだろうか?(二六二ページ)。

 宗教が異なっても、人々が、互いに愛し合い、兄弟と考え、あらゆる宗教を尊敬して平和に暮らせる社会を作るべきである。生まれて後、ずっと信じていた宗教を棄てるように人を説得することは、悪事を勧めることである(二七八ページ)。

 あらゆる種類の美しいものに感動し、愛することを学び、それを自然の欲求とすること、自然の欲求が変質して富を求めるようになることを阻止すること、教育の目標はここに置かれなければならない(三七二ページ)。ここでも、カントが刺激を受けて、自らの著作に『美と崇高との感情性に関する観察』というタイトルをつけたことを想起させる。

 注

(1) 助任司祭(curate)とは、カトリック教会で司祭(priest)を補佐する准司祭のことである。司祭とは、カトリック教会では司教(bishop)の下位にあり、ミサを執行し、洗礼などの秘跡を与え、説教をするなど教会の儀式・典礼を司る。そして、司教とは、教区を長として統括する聖職者で、使徒(apostle)の後継者。使徒とは、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)(3)にもこの語が用いられることがある。広義には、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者で使わされた者という意味である(http://members.jcom.home.ne.jp/izumi-ch/hp/yougosyuu.htm)。

(2) カントには、ルソーによって開眼したと率直に告白した「覚書」がある(Kant, Immanuel[1764])。これについても後述するが、若きカントの素直さが正直に吐露されたものである。

(3) パウロ(Παῦλος, Pauls, ?~67年?)は、キリスト教世界では史上最大の伝道者であると信じられている。もともとユダヤ教徒であったが、イエス・キリストの天の声を聞いて回心し、キリスト教に帰依したとされる。大伝道旅行を行い、ローマでネロ帝のとき殉教した。『新約聖書』にはパウロの書簡が収録されている。「ローマ人への手紙」、「コリント人への手紙(1、2)」、「ガラテア人への手紙」、「フィリピ人への手紙」、「テサロニケ人への手紙(1、2)」、「フィレモンへの手紙」等々全部で一四通ある(http://homepage3.nifty.com/st_peter/cln/index14.html)。
 七十門徒(しちじゅうもんと、Seventy Disciples)とは、ルカによる福音書第10章1節にある、イエス・キリストによって十二使徒の他に選抜されて2人1組として伝道に遣わされた70人の弟子達のことで、日本正教会での訳語(武岡武尾編[1987])。

 引用文献

Rousseau, Jean=Jacques[1762], Émile ou de L'Éducation. 邦訳、今野一雄訳『エミール』
     (上)、(中)、(下)岩波文庫、二〇一二年(第一刷、一九六二年、第七四刷
     改刷、二〇〇七年)。
Kant, Immanuel[1764], Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen.  邦訳、
     上野直昭訳『美と崇高との感情性に関する観察』岩波文庫、一九八二年。
武岡武夫編[1987]、『七十徒小伝』名古屋ハリストス正教会、一九八七年再刊。


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