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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(405) 韓国併合100年(44) 韓国併合と米国(2)

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 大統領選挙を控えていたセオドアは、この報を聞いて、人質を救出すべく、すぐさま大西洋艦隊の戦艦七隻もの大部隊を派遣した。

   ただし、ローズベルトは、ペルディカリスが南北戦争中に米国籍を放棄していて、当時はギリシャ国籍であったという事実関係を知らなかった。大統領選挙を控えていたセオドアは、「我々は、ペルディカリスの生か、もしくはライスリの死を望む」と強硬発言をし、米国民の喝采を浴びた。モロッコ政府は、同年六月二一日、ライスリの要求を受け入れ、ライスリはペルディカリスを釈放した。セオドアは、この救出劇のお陰で選挙に勝利し、さらに次の四年間、ホワイトハウスに留まることになった。救出された人質が、じつは、米国民ではなかったという事実が一般人に知られるようになったのは、一九三〇年代に入ってからにすぎないが、少なくとも一九〇〇年の初めの一〇年間は、セオドアの俊敏な行動力が賞賛されて、彼を国民的人気者にしたのである(http://www.capitalcentury.com/1904.htm)。

 

 パナマ運河の領有権の取得も、セオドアの武断外交の事例であった。
 一八一九年、コロンビア共和国がスペインから独立したが、内戦が絶えず、二〇世紀に入っても政情は安定しなかった。当時のコロンビア共和国は、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマのすべてと、ペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家であったために、広大な領土の各地で分離を求める紛争が発生し、幾多の国家の離合集散が繰り返されていた。

 そして、一八九九年から一九〇二年にかけて、パナマのコロンビアからの分離独立を巡る、いわゆる千日戦争が勃発した。この内戦での戦死者は一〇万人に達したとされている(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/colomb2.htm)。
 この内戦で、一九〇〇年一一月、米海兵隊が米国市民の保護とパナマ鉄道会社の運行確保のためパナマに上陸、二週間に亘り、コロンビア領に属していたパナマを占拠した。一九〇二年九月にも米海兵隊が派遣され、二か月間、占拠を続けた。同年一二月、フランス政府がパナマ運河会社を米国に譲渡することを決定。一九〇三年、パナマがコロンビアから独立。同年一月、コロンビアと米国との間でヘイ・エルラン条約(Hay-Herran Treaty)が調印され、一〇〇〇万ドルの一時金と年二五万ドルの使用料で、一〇〇年にわたる運河建設権、運河地帯の排他的管理権を米国が得た。条約更新の優先権は米国にあり、コロンビアは、米国以外の国に運河を譲渡できないなど、この条約は、コロンビアにとっては、屈辱的な内容であった。この内容に怒った正式のコロンビア大使は交渉を打ち切り、コロンビアに帰国してしまったが、大使に同行していていたトーマス・エルラン(Dr. Tomás Herrán)が代理大使として条約に調印してしまった。米国側の交渉責任者は、国務長官のジョン・ヘイ(John M. Hay)であった。

 一九〇三年八月、コロンビア政府が議会にヘイ・エルラン条約の批准を求めたが、すべての議員がこの条約に反対し、一〇月には、条約批准を拒否した。
 同年一一月、セオドア・ローズベルトは、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」と罵り、コロンビア政府の許可なしでも運河建設を強行すると述べた。それに呼応して、コロンビアからの独立を求めるパナマ革命委員会が反乱を開始し、セオドアも、軍艦四隻をパナマに派遣して革命委員会を支援した。反乱は成功し、臨時評議会政府が、パナマ共和国の独立宣言。同年一一月五日、米政府は直ちに新政府を暫定承認し、コロン市とパナマ市に軍艦九隻を配置してコロンビアを威圧、さらに海兵隊がパナマに上陸。六日、コロンビア軍が米軍の圧力に屈してパナマから撤退。同日、米政府は正式にパナマ新政府を承認した。

 一九〇三年一一月一八日、パナマ運河条約(Panama Canal Treaty=Hay/Bunau-Varilla Treaty)締結。ただし、この交渉にはパナマの革命委員会は排除され、レセップスの下で働いていたフランス人のビュノー・バリーヤ(Bunau-Varilla)だったのである。米国とフランスとの密約であり、パナマ人はあずかり知らぬことであった(5)。
 米国はパナマ政府から運河建設・運営権、幅一六キロ・メートルの運河地帯の一〇〇年間にわたる使用・占有・支配する権利を獲得。米国はパナマの独立を保障し、国内に混乱が生じた際には介入する義務を負うという内容であった。また、「パナマの完全な独立は米国により保障されるため、独自の軍を持つ必要はない」とされた。

 一九〇四年二月、パナマ議会が運河条約を批准.米上院もまもなく運河条約を批准.バリーヤはただちに全権大使を辞任しフランスに去った。ジョン・モルガン(John T. Morgan)上院議員や、 ウィリアム・マックドゥー(William MacAdoo)下院議員などは、パナマ「独立」は、セオドアの陰謀であると非難した(         http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/mesoam/panama.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

 ただし、セオドアは典型的な武断外交の展開者ではあったが、バランス・オブ・パワー論者でもあった(Parker, Tom, "The Realistic Roosvelt," The National Interest, Fall 2004, http://www.theodoreroosvelt.org/life/foreignpol.htm)。

 例えば、彼は、日本とロシアとの間に適切なバランスが必要であると認識していた。一九〇四年に旅順港(Port Arthur)を陥落させた日本軍の勝利を喜びつつも、共和党上院銀のヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge)宛の書簡で、「ロシアが勝利していたら、文明にとって打撃であったが、ロシアが東アジアにおける列強の地位を失ってしまっても、不幸なことであると私は思います。ロシアが日本と正面からぶつかるよりは、相互に穏やかな関係を保つのがもっともよいのです」と語った(上記ウエブサイトより)。ロシアが領土を放棄し、日本も賠償を求めないという和平条約を結ばせたことで、セオドアが米国人初のノーベル平和賞(Nobel Pease Prize)を受賞したのも、アジアにおけるバランス・オブ・パワーを維持したからであると、このサイトでトム・パーカー(Tom Parker)は指摘した。

 ちなみに、日露戦争時のセオドアは、ハーバード大学の同窓生であった金子堅太郎(かねこ・けんたろう)の影響もあって、かなりの日本贔屓であったらしい(6)。


野崎日記(406) 韓国併合100年(45) 韓国併合と米国(3)

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 二 高まっていた米国の反日感情

 セオドアは別にして、一九世紀末の米国では、排日気運が高まっていた。本土に流入する日本人が増加していたことに、米国人は嫌悪感を持っていた。統計的には、日本から米国本土に直接に渡航する日本人移民の数は、多くはなかったのだが、ハワイやメキシコを経由して米国本土に入国する転航移民が多かったのである。一八八五年に日本政府がハワイへの契約移民を正式に認めてから、ハワイへの移民は増えていた。

 米国政府は、一八八二年の排華移民法(Chinese Exclusion Act of 1882)によって中国人の移民を停止させた。その後に、日本人移民排斥運動が起こったのである。

 一八九三年、サンフランシスコの市教育委員会が、市内の公立学校への日本人生徒の入学を拒否する決定をした。「日本人生徒の年齢が他の生徒より高い」というのがその理由であった。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶために、実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時一七歳以下の児童には一人当たり九ドルの補助が政府から下りていたが、一七歳以上の日本人生徒が多い学校は補助を得られなかった(伊藤[一九六九]一五ページ)。

 この決議は当時の日本領事・珍田捨巳(ちんだ・すてみ)らの運動によって取り消されたが、日本人排斥の動きはその後も活発になった。一九〇一年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を連邦議会に送った。一九〇五年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会」(Japanese and Korean Exclusion League、後にアジア人排斥協会、Asiatic Exclusion Leagueに改名)が組織された。

 一九〇六年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今度の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の被害で学校のスペースが足りなくなっからというものだった。しかし、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は、わずか、九三名であり、うち、二三名は米国生まれであった。残る六八名のうち、一五歳以下が三六名であった(Wilson & Hosokawa[1980], p. 53)。その意味で、一七歳以上の日本人生徒が多すぎるという当局の主張は言い掛かりでしかなかったのである。

 日系移民たちは、直ちに抗議運動を展開した。日本本国のマスコミに、この事件と、各地で頻発していた日本人経営レストランへのボイコット、日系人襲撃事件などが知らされた。

 日本贔屓のセオドア・ローズベルトは、迅速に行動した。公立学校から日本人を締め出すという行為は、「日米通商航海条約」(U.S.-Japan Treaty of Commerce and Navigation、一八五八年の不平等条約が、一八九四と一九一一年に改訂)に抵触するとして、サンフランシスコ市に学童隔離の撤回を命じ、一九〇七年、日本人生徒は復学を許された。

 しかし、その一方で、ローズベルトは、一九〇七年三月、大統領令(Executive Order)を出し、ハワイ、メキシコ、カナダからの日本人の転航移民を禁止した。サンフランシスコの学童隔離問題は、結局、移民制限という形で決着させられたのである。

 日本政府は、このような移民排斥に強硬に抗議しなかった。それどころか、移民排出を自主的に制限してしまったのである。日本政府は、一九〇八年、「日米紳士協約」(Gentleman's Agreement)なる取り決めを米政府と結んだ。これは、一般の観光旅行者や留学生以外の日本人に米国行き旅券を日本政府は発行しないというものであった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html)。この紳士協定による自主規制の結果、以後一〇年ほどは、日本人移民の純増はほとんどなくなった。

 当時の駐米・日本大使は、埴原正直(はにはら・まさなお)であった。埴原は、一八九八年、外交官試験に合格し、同年、東京専門学校(現在の早稲田大学)内で、日本で最初の外交専門誌『外交時報』を創刊した。翌年領事館補となり、廈門 (Amoy)領事館に赴任。一九〇二年、駐米日本大使館の外務書記官補となりワシントンに赴任。五年後二等書記官となる。米国内の反日感情が高まりつつあった一九〇九年、埴原はコロラド、ワイオミング、ユタ、アイダホ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、テキサスの八州を回って日本人居留地を視察した。日本人町が排日論者たちの目にどう映っているのかを探るためであった。視察は二か月以上に亘った。自らの足で日本人町を歩き、時には変装までして売春宿に潜入した埴原は、調査結果を『埴原報告』と呼ばれるレポートにまとめ、外務大臣の小村寿太郎宛に送った。これを読んだ外務省は、その内容に衝撃を受け、この『埴原報告』を機密文書扱いにして封印した。埴原のレポートには、日本人町の不衛生さ、下賤さ、卑猥さなどが、赤裸々に綴られていたからである。

 日米紳士協定に話を戻す。紳士協定には「米国既在留者の家族は渡航可能」という条文があった。これが後に問題になった。当時の日本人は見合い結婚が一般的であった。親や親戚の薦めで、日本人の独身者たちは、写真を見ただけで結婚をしていた。花嫁が旅券発給を受けて入国していたのであるが、これが、米国人には「写真結婚」という擬制によって、日本人が不法移民をしているというように映った。見合結婚の習慣のない米国人にとってこの形態は奇異であり、非道徳的なものであった。カリフォルニア州を中心としてこの形態が攻撃された。米国で出生すれば、子供は、自動的に米国市民権を得ることができるので、日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があった。結局、写真結婚による渡米は日本政府によって一九二〇年に禁止されることになった。また、一九二一年には、「土地法改正」(1921 Alien Land Law)により、外国人による土地取得が完全に禁止された。

 この一九二一年には、米国で「移民割当法」(Quota Immigration Act)が成立している。国勢調査に基づく出身国別居住者数に比例した数でのみ各国からの移民数を割り当てるとしたのである。

 そして、一九二四年、日本人移民の排斥を目指す法案が議会で審議されることになった。反日意識の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第一三条C項を「一八七〇年帰化法」(Naturalization Act of 1870)に追加する提案がなされたのである。一九七〇年帰化法には、自由な白人、アフリカ系黒人の子孫のみが米国人に帰化でき、他の外国人は帰化できない「帰化不能外国人」(Aliens Ineligible to Citizenship)という定義がなされ、、帰化不能外国人の移民は制限されていた。しかし、一九二〇年代には、日本人を除いて全面禁止になっていた。第一三条C項は、移民制限の徹底化であるが、当時、帰化不能外国人でありながら移民を認められていたのは、日本人のみであったから、実質的にはこの条項は日本人を対象としたものであった。



 米国務長官・ヒューズ(Hughes)が、こうした議会の動きを牽制するために、日本政府は「日米紳士協定」によって、対米移民を制限しているという事実を議会に説明すればよいと植原大使に促した。こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付するということになった。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果」(grave consequences)という個所が日本政府による米国への「覆面の威嚇」(vailed threat)である、とする批判が上院でなされ、日本批判の大合唱となった。結果的に、「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案は七六対二の大差で否決され、クーリッジ(John Calvin Coolidge Jr.)大統領も拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定されることになった。そして、一九二四年五月、「一八七〇年移民法の一部改正法」(俗にいう「排日移民法」(Japanese Exclusion Law)が成立したのである。

 植原大使は、同年、責任を取って大使を辞職し、失意の中で一九二七年に退官し、その七年後に五八歳の若さで亡くなった(http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzoh.html)。

野崎日記(407) 韓国併合100年(46) 韓国併合と米国(4)

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 三 セオドア・ローズベルトの対日意識を変えさせた朝鮮総督府による宣教師弾圧

 米国人の反日感情を高めた原因の一つに朝鮮総督府による米国人宣教師弾圧があった。米国のアジア進出は、キリスト教の布教を軸にしたものであった。

  米国政府は日本による韓国支配を認めてはいたが、米人宣教師を敵視する朝鮮総督府の行動には神経を尖らせていた。米人宣教師たちが反日運動を煽っているのではないかという朝鮮総督府の疑念に、米政府は危惧していたのである。事実、米国人宣教師の多くが朝鮮の独立運動に巻き込まれていたし、日本政府の米国人宣教師への警戒感は強くなっていた。

 こうした事情を反映して、韓国併合時に米国務長官であったハンチントン・ウィルソン(Huntington Wilson)が米国駐日大使のトーマス・オブライアン(Thomas J. O'Brien)に併合後の対宣教師政策を日本政府に質すように指示した(Wilson[1911], pp. 320-21)。それを受けたオブライアンが、当時の外務大臣、小村寿太郎に質問したところ、小村は、一九一〇年一〇月六日に返事し、宣教師による布教活動とミッション教育については、従来通り継続させると明言した(小村[一九一〇]、七一一〜一四ページ)。



 しかし、キリスト教の布教活動が日本政府によって弾圧されるのではないかとの、ウィルソンの危惧は的中した。小村の明言にもかかわらず、多数の韓国人クリスチャンが、初代朝鮮総督、寺内正毅(てらうち・まさたけ)暗殺計画の容疑で逮捕されるという事件が一九一一年に発生した。暗殺計画は一九一〇年の寺内の朝鮮赴任時を狙ったものであった。七〇〇人が逮捕され、朝鮮総督府によって一二二人が裁判にかけられ、うち、一〇五人が重労働の卿を科せられた。最終的には六人のみ有罪確定となり、それも一九一五年に特別放免された。これがいわゆる[一〇五人事件」である(尹[一九九〇]、参照)。


 この事件は日本の官憲によってでっち上げられたものではないのかとの疑惑が、当時もいまも囁かれている。米国の長老教会系(Presbyterian)の教団は、「韓国でっち上げ事件」(Korean Conspiracy Case)として、「一〇五人事件」を糾弾するキャンペーンを米国と韓国で直ちに展開した。

 米国人宣教師たちの動きが米国民の対日感情を悪化させる端緒になった。
 ソウル(Seoul)にいた分離派長老教会病院(Prebyterian Severance Hospital)理事長のアビソン(O. R. Avison)、平壌(Pyongyang)にいた長老派宣教師のサミュエル・モッフェット(Samuel A. Moffett)、北の平安(Pyong-an)北道の成川(Seoncheon)にいた長老派宣教師のノーマン・ウィットモア(Norman C. Whittemore)の三人が、一九一二年一月二三日、寺内と面会し、韓国のクリスチャンたちの無実を訴えた。しかし、寺内はその訴えに耳をかさなかったという(外務省編[一九三九]、一二八〜三二ページ)。

 米国では、ニューヨークを本拠とする米国長老教会海外伝道局長(Secretary of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America)のアーサー・ブラウン(Arthur J. Brown)が精力的に動いた。ブラウンは、日本による韓国支配には好意的な意見の持ち主であったが、それでも、クリスチャンとして「一〇五人事件」への抗議行動に立ち上がった(Nagata[2005], pp. 161-62)。彼には、日本への傾斜とクリスチャンとしての矜恃の狭間で苦しんだことを告白した著作もある(Brown[1919])。



 ブラウンは、一九一二年二月、当時の駐米日本大使館の外務書記官(chargé d'affaires)であった埴原正直とニューヨークで面会し、逮捕された韓国人への穏便な対処を懇願した。さらに、数名の長老派教会の牧師とともに、ワシントンで駐米日本大使の珍田捨巳、タフト大統領、フィランダー・ノックス(Philander C. Knox)米国務長官、ウィリアム・サルツアー(William Sulzer)下院外交問題委員会議長とも会っている。ブラウンの説明を聞いたザルツアーは逮捕された韓国人に一時は同情したが、その後で、珍田から説明を受けてからは、その同情心を引っ込めた。しかし、ブラウンの反日感情は強くなるばかりであった。日米関係を考慮して六人を除く他の逮捕者たちが日本の官憲によって無罪釈放された後も、米国長老派教会は事件になんら関与していなかったことを朝鮮総督府に執拗に訴え続けていたのである (Nagata[2005], p. 162)。

 ちなみに、「一〇五人事件」は米国の長老派教会によって企まれたものであることを自白させるために、検挙者たちに拷問を加えろと命令したのは、当時、憲兵司令官兼警務総長の明石元二郎(あかし・もとじろう)であった(7)。ただし、拷問はなかったという証言もある(Nagata[2005], p. 163)。



 結果的には、最後の六人にも日本当局は恩赦を与えた(一九一五年二月)のであるが、その背景には、本国の政府高官が朝鮮総督に米国宣教師たちの怒りをなだめるようにとの助言をしていたことがある。例えば、枢密院顧問の金子堅太郎が、当時の逓信大臣、前台湾総督府民政長官の後藤新平(ごとう・しんぺい)からの要請を受けて、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)に米国のキリスト教会への慰撫を依頼すると同時に、寺内正毅に事を納めるように諫めている。一九一二から一三年にかけてのことである。恩赦は、当時の首相、大隈重信(おおくま・しげのぶ)の了承による((Nagata[2005], p. 164)。

野崎日記(408) 韓国併合100年(47) 韓国併合と米国(5)

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 四 三・一運動で増幅された米人宣教師に対する朝鮮総督府の憎悪

 一九一六年、寺内正毅が日本の首相に転じるとともに、後継の朝鮮総督は、長谷川好道(はせがわ・よしみち)がなった。国際環境が激動する中での日本の朝鮮支配であった。一九一七年にはロシア革命、一九一八年一月のウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領による「平和一四原則」(Fourteen Points Adress)が世界の独立運動を刺激した。そして、一九一九年一月二一日、日本政府から徳寿宮李太王の称号を受けていた前韓国皇帝、高宗(Kojong)が死去(六七歳)し、毒殺の風聞が流れて、三月三日の葬儀芽の三月一日、朝鮮で反日・独立運動が大規模に発生したのである。



 米国の伝導教会は、朝鮮半島南部のよりも、北部の方が多かった。そして、三・一運動は、北部の方が激越であった。日本政府は、ウィルソンによる民族自決と米国長老派教会に対してますます神経を尖らせることになった。

 当初は、米国政府も日本政府に気を遣っていた。駐ソウル米総領事レオ・バーゴルツ(Leo A. Bergholz)は、朝鮮における米人宣教師たちに、朝鮮国内の問題、とくに政治問題に関与しないようにと要請したほどである(Bergholz[1934], pp. 458-59; Nagata[2005], p. 165)。しかし、日本の新聞は三・一事件は米人宣教師の扇動によったものであると書き立てた(Nagata[2005], p. 166)。駐日米大使ローランド・モリス(Roland S. Morris)は、本国の国務省に、事件は米人宣教師が関与したものではなく、朝鮮人のナショナリズムの発露であるとわざわざ報告しなければならなかったほどである。朝鮮総督府側も米人宣教師を追い詰めることは、米国の反日感情を掻き立てるとして宣教師に対しては慎重な姿勢を示していた(Nagata[2005], p. 166)。



 しかし、一九一九年四月四日、米人宣教師が事件に関わった朝鮮人五人をかくまったという容疑で平壌で宣教していたエリ・モーリー(Eli M.Mowry)という長老派の牧師が官憲によって逮捕された。上記のバーゴルツは直ちに朝鮮総督府に抗議した。そうそたこともあって、モーリーは、四月一九日には、六か月の強制労働の刑を言い渡されていたが、一二月には一〇〇円の罰金刑に減刑された(姜[一九七〇]、五八七ページ)。米国の新聞はこの事件を連日、大きく取り上げていた(8)。

 日本側は、米国の反日感情を高める愚策を重ねてしまった。四月一〇日、三・一運動で官憲によって負傷させられた多数の朝鮮人たちが、長老派教会が運営する病院("Serverance Hospital")に収容された。しかし、日本の憲兵隊は、病院側が犯人を匿ったとして、首謀者たちの引き渡しを要求し、幾人かを憲兵隊本部に連行した。バーゴルツや長老派の牧師たちが憲兵隊に抗議したが聞き入れられなかった(Nagata[2005], p. 167)。

 四月一五日、いわゆる「提岩里虐殺事件」が起きた。事件の起きた京畿道(Gyeonggi-do)水原郡(Suwon-gun)提岩里(Cheam-ri)は、現在の華城市(Hwaseong-si)である。約三〇人の住民が日本軍によって虐殺された。日本側は、三〇人は、憲兵に襲いかかった暴徒を射殺したものであると説明した。この日、憲兵隊が提岩里の堤岩教会に、小学校焼き討ちと警察官二名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男子二〇数名を集めて取調べをしていた。その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして憲兵に襲いかかってきたので、憲兵はこの二人を犯人だと即断して殺害してしまった。これを見た教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、ほとんど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した、これが日本側の説明である(朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正八(一九一九)年四月二四日、ウィキペディアより)。

 しかし、駐ソウル米総領事、レイモンド・カーティス(Raymond Curtis)が、ソウルで活動していた長老派宣教師、ホリス・アンダーウッド(Horace H. Underwood)とAPニュース(Associated Press News Agency)通信員、A・テイラー(A. W. Taylor)を伴って、騒動があった村落を視察し、実際には、村民たちが憲兵たちによって教会に閉じ込められ、その上で教会ごと焼き殺されたとの認識を得、その事件を告発すべく、アンダーウッドは、「チアムリ事件」("the Cheam-ri Incident")というタイトルのレポートを世界に向けて発信した(Nagata[2005], p. 167)。

 日本側と米国側との認識に差があるが、二〇〇七年二月二八日付『朝日新聞』は、憲兵が村民を焼き殺したことを暗示させる資料を発見したと報道した。三・一運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(一八六一〜一九二二年)の一五年分の日記など、大量の史料が見つかったが、そこでは、独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は、情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費一〇万円を提供させ、中国での情報工作費に充てた人である。

 日記の重要な個所は、一九一九年四月一八日のものである。そこには、堤岩里事件に関して、「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」、「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」、そして、善後策を協議する会合では、「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜一二時散会す」という、憲兵による放火虐殺の事実を認めているのである。

 独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。日記以外の史料は、書簡五〇〇〇通、書類二〇〇〇点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070228/p5、二〇一〇年八月一三日アクセス。

「三・一運動鎮圧克明に、宇都宮太郎大将の日記発見、朝鮮人三〇人虐殺隠蔽、「怨嗟は自然」懐柔工作」、『朝日新聞』二〇〇七年二月二八日)



 破壊されたのは、虐殺のあった教会だけではない。周辺の一八もの村が運動弾圧で破壊されたのである。時の朝鮮総督は長谷川好道であった(Nagata[2005], p. 168)。


 おわりに


 一九二〇年頃から中国と朝鮮との国境地帯で、朝鮮独立運動が激しくなった。とくに、間島(朝鮮語でChientao、中国語でJiandao)地域には、日本の圧政から逃れてきた朝鮮人たちが多く居住していた。当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。

 間島地域内の都市の一つの琿春(Hunchun)には、日本の領事館が置かれていた。この領事館が一九二〇年の九月と一〇月の二回、襲撃された。これは、日本の官憲によって雇われた中国人であったと言われている。これを契機に、日本政府は現地在住日本人の安全を守るという口実で、一九二〇年一〇月一四日、この地に軍隊を派遣した。日本軍は、間島の六六もの町や村を破壊し、約二三〇〇人の朝鮮人を殺した(姜[一九七二]、三五〇ページ)。

 日本軍によって虐殺された人の多くがクリスチャンであった。中国、朝鮮で活動する米人宣教師たちが、この残虐行為を非難した(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月五日付)。派遣軍の隊長、水町竹三(みずまち・タケゾウ)は、初めから、琿春事件が、英米人宣教師たちの扇動によって引き起こされたものであると広言していた(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月三日付)。

 これに対して、日本政府は、水町発言を公式のものでなく水町個人の見方であると弁明したが(『東京朝日新聞』二〇一〇年一二月一二日、二七日付)、日本の当局が本音のところで米人宣教師に対して強い警戒感を持っていたことが、この事件によって示されたのである。

野崎日記(409) 韓国併合100年(48) 韓国併合と米国(6)

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  注

(1) 備後安芸郡箱田村(現・福山市神辺町箱田)出身。一八三六年一〇月三日(天保七年八月二五日)生まれ、一九〇八(明治四一)年一〇月二六日没。昌平坂学問所で儒学を、ジョン万次郎の私塾で英語を、幕府が新設した長崎海軍伝習所入所で蘭学も学ぶ。航海術・舎密学(化学)も修めた。一八六二〜六七年オランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験。幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。大政奉還後の一八六八(慶応四)年一月、幕府海軍副総裁に任じられ、新政府への徹底抗戦を主張。江戸城無血開城後、開陽を含む軍艦八艦で江戸を脱出。箱館の五稜郭に立て籠もるが新政府軍に敗北。榎本の才能を惜しむ蝦夷征討軍海陸軍参謀・黒田了介(黒田清隆、くろだ・きよたか)が助命運動。一八七二(明治五)年一月、特赦。蝦夷開拓使として黒田の配下として新政府に仕官。一八七四(明治七)年一月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。帰国後、要職を歴任し、一八九七(明治三〇)年に農相として足尾銅山に関する第一回鉱毒調査会を組織し、政府として初めて解決に道筋をつけた(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/28.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(2) 薩摩出水脇本村槝之浦(かしのうら)(現・阿久根市脇本槝之浦)出身。一八三二年六月二一日(天保三年五月二三日)生まれ、一八九三(明治二六)年六月六日没。一八六一年、幕府の第一次遣欧使節(文久遣欧使節)の通訳兼医師として参加、一八六三年薩英戦争で五代友厚とともに捕虜になる。一八六五年薩摩藩遣英使節団に参加、新政府で外交官、一八七三年、参議兼外務卿、一八七九年条約改正交渉に臨む、米国の賛成を得たが英国の反対に遭い挫折、外務卿辞任(http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/terashimamunenori.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(3) 一九〇五年時点の正式の外務大臣は小村寿太郎(一八五五〜一九一一年)であったが、日本全権としてポーツマス(Portsmouth)会議に出席するために日本を不在にしていた。その間、首相の桂が外務大臣を兼務していたのである。

 小村は、ポーツマス条約を調印後、米国の鉄道王・ハリマン(Edward Henry Harriman)が満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定、一九〇五年)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した。件については評価が分かれる。一九〇八(明治四一)年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉に従事。一九一一(明治四四)年、日米通商航海条約を調印し関税自主権を獲得した。

(4) 「桂・タフト覚書」の日本側原本は消失している。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第三八巻第一冊(明治三八年)には、米国の外交文書から同覚書を引用している(http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/meiji_05.html)。

(5) 一八〇〇年代前半、米、英、スペイン、ドイツ、オランダがニカラグア、フランスがパナマを運河建設の予定地として、それぞれ調査・計画を進めていた。一八四八年に米国がメキシコから奪ったカリフォルニアでゴールドラッシュが起きた。東海岸から西海岸のカリフォルニアへの移動は、船でパナマまで行き、最短で五一キロ・メートルの陸路を渡り、太平洋を船をカリフォルニアに着けるというコースが選ばれた。そこで、米国の郵船会社が、パナマに鉄道を一八五五年に五年で完成させた。この鉄道は、米国が自国民の安全を確保するためという大儀を掲げて、軍隊を派遣できる口実となった。

 同時期にフランスのフェルディナンド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps, 1805〜1894)が、一八八〇年、エッフェル塔建設で有名になったギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832〜1923)と組んでパナマ運河建設に乗り出したが失敗。

 その工事は、米国に継承された。米国は、ニカラグアの工事を取り止め、パナマ一本に絞ることになった。米国はパナマをコロンビアから独立させようとした。独立運動の担い手が革命委員会でその中心人物が、当時パナマ鉄道に勤めていたパナマ出身のマヌエル・アマドール(Manuel Amador)、そして彼を直接焚きつけた人物こそ、もとレセップスの下で働いていたバリーヤであった。米国務長官ヘイと、バリーヤとの密室内での運河協定はパナマの主権を完全に踏みにじるものであり、パナマも表面的には独立を承認されたが、実質的には米国の属国となってしまった(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=208137、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(6) セオドアは、日本贔屓でもあったらしい。米国人初の柔道茶帯取得者。山下義韶から週三回の柔道の練習を受け、山下を海軍兵学校の柔道教師に推薦した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布した。ただし、日露戦争後に次第に東アジアで台頭する日本に対して警戒心を強くし、日本には冷淡になった。日露戦争後は艦隊(Great White Fleet)を日本に寄港させて日本を牽制した(ウィキペディアよち)。

 金子堅太郎(嘉永六(一八五三)〜昭和一七(一九四二)年)は、藩学修猷館を出た後、黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に入学(一八七六年)。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に大きく貢献した。
 金子堅太郎は司法の分野だけでなく、外交官としても卓越した力を発揮した。日露戦争の開戦当初、金子は厳正中立の立場にあった米国を友好的中立国とし、戦争講和の調停役を引き受けさせる、という政府の密命を帯びて渡米した。強力な人脈は、当時の米大統領セオドア・ローズベルトであった(http://shuyu.fku.ed.jp/syoukai/rekishi/kaneko.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(7) 明石元二郎(元治元年八月一日(一八六四年九月一日)〜大正八年一〇月二六日)は、藩校修猷館を経て陸軍士官学校、陸軍大学卒。一九〇一(明治三四)年、フランス公使館付陸軍武官。一九〇二(明治三五)年)、ロシア公使館付陸軍武官に転任、英国スパイと交遊。日露戦争時には、陸軍大佐。当時の国家予算は二億三〇〇〇万円程であった。山縣有朋の命令により、参謀本部から当時の金額で一〇〇万円(現在価値で四〇〇億円強)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。ヨーロッパ全土の反ロシア帝政組織にばら撒き、その工作の内容を、手記『落花流水』(非売品、国会図書館蔵)にまとめられている。ジュネーブにいたレーニンをロシアに送り込んだ。血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与したとされている。レーニンは明石に感謝していたという。

 一九一〇(明治四三)年、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。一九一五(大正四年)第六師団長を経て、一九一八(大正七)年、第七代台湾総督に就任し、陸軍大将。在任中は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、鉄道海岸線を建設、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正、これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれた。華南銀行を設立。台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬されている(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/221.htm)。

(8) 例えば、『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times)が、事件を執拗に報道していた。"American Missionary is Arrested in Korea"(一九一九年四月一一日)、"Japanese Arrest Americans in Kore"(四月一四日)、"Asks Sentence of Mowry"(四月二〇日)、"Admits Aiding Koreans"(四月二一日)、"Mowry is Sentenced"(四月二二日)、"Mowry Sentence Appeal"(五月一九日)、"Mowry Trial End"(八月二五日)、"New Trial For Rev. Mowry"(八月二九日)、Jail or Fine for Mowry"(一二月八日)。内容は反日感情に満ちたものであった。

野崎日記(410) 韓国併合100年(49) 韓国併合と米国(7)

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 引用文献

伊藤一男[一九六九]、『北米百年桜』北米百年桜実行委員会。
外務省調査部編[一九三九]、『日米外交史』。
姜徳相編[一九七〇],『現代史資料』第二七巻(朝鮮・三)みすず書房。
姜徳相編[一九七二],『現代史資料』第二八巻(朝鮮・四)みすず書房。
小村寿太郎[一九一〇]、「一九一〇年一〇月六日付オブライアン宛て小村書簡」、『日本外
     交文書』第四三巻、第一号。
田中明[一九九七]、「日本における朝鮮研究の停滞と関連して」、『海外経済事情』第四五
     巻、七・八号。
尹慶老[一九九〇]、『一〇五人事件と新民會研究』一志社。
和田春樹・石坂浩一編[二〇〇二]、『岩波小辞典・現代韓国・朝鮮』岩波書店。
Bergholz, Leo A.[1934], "Bergholz to the Secreraries of the American Misso Stations in Korea,
          24 January 1919, Foreign Affairs of the United States, 1919, vol. II, Government
          Printing Office.
Brown, Arthur[1919], The Mastery of the Far East, Charles Scribner's Son.
Department of State Archieves[1905], Miscellaneous Letters, July, Part 3.
Dennett, Tyler[1924], "President Roosevelt's Secret Pact with Japan," Current History, XXI.
Nagata, Akifumi[2005],"American Missionaries in Korea and U. S.- Japan Relations 1910-1920,"
          The Japanese Journal of American Studies, No. 16.
Wilson, Hungtinton[1915], "Wilson to O'Braien, 17 September 1910," Foreign Relations of the
          United States, 1911, Government Printing Office.
Wilson, Robert. A. & Bill Hosokawa[1980], East to America; A History of the Japanese in the
          United States., William Morrow and Company, Inc.

野崎日記(411) 韓国併合100年(50) 韓国臣下論(1)

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 2 王政復古・日英同盟・韓国臣下論

 はじめに

 「日英同盟」が締結されたのは、一九〇二年一月三〇日である。同盟が締結される直前の一九〇一年一一月から一九〇二年一月にかけて伊藤博文(ひろぶみ)が欧州を歴訪し、各地で大歓迎された。それも過剰な程の接待を受けた(君塚[二〇〇〇]、三三〜四八ページ、参照)。



 日英同盟が検討されるきっかけを与えたのは、一九〇一年三月に、ドイツにが行なった、東アジアの安全保障に関する「日英独三国同盟」の提唱であった。これに対して、英国首相のソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury)が乗り気でなかったので、ドイツはあきらめることになった。



 「日英独三国同盟」の気運が消え去ると、日英の間で日英同盟の可能性が検討され始めた。つまり、日英同盟は、長年の懸案の結果ではなく、突然にアイディアが浮上し、瞬く間に成立してしまったのである。

 ただし、ソールズベリー首相自身は、「三国同盟」案解消後に浮上した日英同盟構想にも消極的であったらしい(君塚[二〇〇〇]、三四ページ)。それでも、一九〇一年七月三一日、英国外務大臣になったランズダウン(Henry Charles Keith Petty-Fitz Maurice, 5th Marquess of Lansdowne)と在英日本公使・林菫(はやし・ただす)との間で、日英同盟を両国の正式の検討事項にすることが確認された。両者の会談では、清の門戸開放・韓国における日本の優越的地位が確認された。同年一〇月一六日に両者の会談が再開されたが、フランス滞在中のソールズベリー首相の帰国まで、会談内容を進展させないように、ランズダウンは林に要請した。つまり、日英同盟案に消極的な英首相の意向を無視することができなかったのである(同、三四~三五ページ)。

 この時期、ランズダウンは、清、ペルシャの問題でロシアと交渉していた。この交渉が決裂したのが一九〇一年一一月五日である。すでに帰国していたソールズベリーは、これまでの姿勢を一転させ、日英同盟の積極的推進者になった(同、三五ページ)。

 まさにこの一一月時点で、伊藤博文がロシアなどの欧州を歴訪したのである。それは、「日露同盟」の成立が可能かどうかの交渉だった。伊藤は、ソールズベリーと同じく、一一月までは日英同盟に懐疑的であった。栄光ある孤立政策を続けていた英国が、何の見返りもなく日本と同盟を求めてきていることに不信感を持っていたのである(同、三六ページ)。
 それにしても、この時期の伊藤を取り巻く環境は華麗であった。一九〇一年一〇月、伊藤は米国のエール大学から名誉博士号を贈られるとの通知を受けた。その授与式に出席するために米国に渡った後、欧州に行こうと旅立ったのである。それは、建て前としては、私的な旅行であった。ところが訪問先の各地で大歓迎を受けたのである。




 伊藤は、一九〇一年一一月二七日、ペテルスブルグに到着し、翌二八日にロシア皇帝のニコライ二世(Nicholas II)との謁見を許され、一二月二〜四日、ラムズドルフ(Vladimir Nikolayevich Lamsdorf)外相、ウィッテ(Selgei Witte)蔵相と会談、韓国における日本の優位をロシアに認めさせようとした。しかし、結論は、その時点では出なかった。そして、一二月一二日には「日英同盟」を締結するという方針が日本政府によって確認された。ベルリンに入って、伊藤は、駐独・英臨時公使・ブキャナン(George William Buchanan)と会談した。しかし、一二月一七日、ロシアのラムズドルフ外相から、ロシアは、韓国における日本の特権的地位を認められない、つまり、日露同盟は無理であるとの返事を、伊藤は、受けた(同、三七ページ)。このこともあって、一九〇一年一二月二四日にロンドンに入った伊藤は、「日英同盟」締結止むなしとの覚悟を決めたようである(同、三八ページ)。




 一二月二五日のクリスマスには、聖なる日に遠慮して、伊藤は、動けなかったが、翌二六日には、ソールズベリー主宰の晩餐会に主賓として招待された。クリスマス休暇中であるにもかかわらず、重要人物たちが伊藤のために集った。そして、二七日には、モールバラ・ハウス(Mallborough House)で、国王エドワード七世(Edward VII)の謁見を許されている。年明けの一九〇二年一月三日には、ランズダウン外相の邸宅・バウッド・ハウス(Bowood House)に招かれ、会談している。翌、一月四日、ソールズベリーの別荘、ハットフィールド・ハウス(Hatfield House)の午餐会に招かれ、各界の名士たちと会食している。その夕刻、日本公使館主宰の晩餐会が開催され、英国政府要人のほとんどが出席し、伊藤は、英国王からの最上級のバース勲章(Grand Cross of the Bath)を授与されている。一月六日午後、伊藤は英国外務省で再度ランズダウン外相と会談し、ロシアとの約束がないことを確認させられた(同、三八~三九ページ)。



   その後、伊藤はサンドリナム・ハウス(Sandringham Housei)に国王を表敬訪問し、礼を述べて、一月七日、パリに発った。



 英国政府関係者の伊藤への歓迎ぶりは、ロシア、ドイツと同程度のものであったことを、
ニシュ(Ian Nishh)が説明しているが(Nish[1966], p. 201)、ロンドンでの大歓迎ぶりが他国でもあったということは、驚くべきことである。しかも、ロンドンでは年末・年始の休暇中にこれだけの規模の歓迎がなされたのである。それは、日本における伊藤の地位の高さを示すものであるし、それだけ、東アジア情勢が緊迫化していたことの証左であろう。
 伊藤が、ロンドンを離れたその月末(一九〇二年一月三〇日)に日英同盟は締結された(1)。いかに慌ただしかったかが分かるであろう。

野崎日記(412) 韓国併合100年(51) 韓国臣下論(2)

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 一 韓国併合を促進させた日英同盟

 日英同盟のユニークさは、日本が熱望して英国に懇請したのではなく、英国側が締結を急いだという点にある。日本は、英国だけではなく、ドイツ、ロシアをも協調関係に巻き込もうとしていたのではないかというのが通説である。

 日英同盟を締結したということを明治政府が日本人に知らせたのは、一九〇二年二月一二日であった。伊藤は、まだ帰国していなかった。伊藤の帰国は二月二五日であった。

 日英同盟の締結日が一月三〇日だったのに、公表が大幅に遅れる二月一二日であったことも真相は不明である。しかし、二月一一日は紀元節で、当時の日本人の多くが戸口に日の丸旗を掲げる習慣があったことを計算に入れたものであろう。「天皇陛下万歳」という紀元節の唱和を翌日にそのまま利用することができたからであろうと想像される。

 日英同盟祝賀会は、一九〇二年二月一四日から全国各地で数百人規模で行なわれた。それはまさに狂騒そのものであったという(「狂気の痴態を演ずる勿れ」、『都新聞』一九〇二年二月二二日付。片山「二〇〇三]、七七六ページ)。政党としては憲政本党(2)が先陣を切って党本部で祝賀会を開いた。祝賀会での大隈重信(おおくま・しげのぶ)の挨拶は、彼が、日英同盟の必要性を外相時代(一八八九年一月)から訴えていた政治家であったことから、新聞でも大きく取り上げられた(「大隈伯の演説」、『日本』一九〇二年二月一五日付。片山[二〇〇三]、七六八ページ)。大隈は、清・韓国の保全、両地域における日本の経済的利益、日本を世界の大国に押し上げるという三点を同盟の効果として強調した。首相と外相とを兼任していた一八九八年九月には、フィリピンを米国が領有しなかったら、日英が協同でフィリピン統治をしようとの日英提携論を提起したことがある(片山[二〇〇三]、七六八〜六九ページ。伊藤[一九九九]、一二八ページ)。憲政本党は、一九〇一年一二月から満州からロシアを追い出すために日英米の三国同盟を訴えていた。

 伊藤博文がまだ外遊中から帰国しないうちに、大隈が、いち早く祝賀会を開いたのも、政友会(立憲政友会)への対抗意識があったからである。当時の衆議院での第一党は伊藤博文を党首とする政友会であった。衆議院議員二九七名中、政友会は一五五名を占めていた。それに対して憲政本党は六九名しかなかった。しかも、日英同盟に懐疑的であったはずの伊藤の真意を、伊藤が帰国していないために確かめることのできない政友会は、身動きが取れなかった。大隈はこれを利用した(片山[二〇〇三]、七六九ページ)(3)。

 しかし、伊藤博文が日英同盟への批判者であるというのは、政党間の対立から作り出された捏造であろう。伊藤は、ロシア、ドイツ、英国という複数の国との協調路線を目指していたのであり、英国との単独同盟だけでは、満州、韓国における日本の権益を護ることが困難であるという全方位外交を目指していたのである。しかし、彼が携わっていた「日露協商」は秘密交渉であり、国民には途中経過は知らされてなかったし、伊藤の母体である政友会自体でさへ、伊藤の真意は分からなかった。伊藤が受けたロンドンでの厚遇ぶりが知らされて、やっと、伊藤は日英同盟反対論ではないことに気付いてはいたが、それでも、伊藤自身の口から真意を聞かないかぎり、軽々に同盟成立祝賀会を開けなかったのである。そうしたこともあって、「日英同盟」直後の世間の伊藤評価は厳しかった(「伊藤侯と日英同盟」、『日本』一九〇二年二月一四日付。片山[二〇〇三]、七七一ぺージ)。「日英同盟」成立による天皇陛下万歳の声が全国にこだまするようになった情況では、伊藤は苦しい立場に追いやられていた。

 ロシアとの協調を訴えていた伊藤は、「恐露病」と揶揄されていたという(片山[二〇〇三]、七七一ページ)。事実誤認であるが、『都新聞』(一九〇二年二月一六日付)は、「日英同盟と伊藤侯」というタイトルで、伊藤が第四次政権時に、英国からの同盟の申し入れに二度も断ったと報じている。しかし、そうした事実はないと片山慶雄はいう(片山[二〇〇三]、七七二ページ)。伊藤が日英同盟に反対していたという、こうした決めつけは、東大医学部教授であったベルツ(Erwin von Bälz)までが共有していた。親露派の伊藤が、ロンドンで日英同盟を推進したとはありえないことであると断じたのである(一九〇二年二月一七日付ベルツの日記、ベルツ[一九七九]、二四六ぺージ)。

 上記で指摘したように、大国英国を日本に振り向かせたという歓喜が、稚戯に等しい飲食を伴う万歳三唱の渦を全国に蔓延させたのであるが、それに立腹する人たちも、中にはいた。幸徳秋水は日本人の外交感覚の幼さを嘆いた(「国民の対外思想」、『長野日々新聞』一九〇二年三月二八日付。片山[二〇〇三]、七七六ページ)。

 伊藤博文の関与があるのではないかと片山慶雄が推測する(片山[二〇〇三]、七八三ページ)『二六新報』は、ロシアやフランスとの協商を容易にする手段として日英同盟を結ぶのならいいが、ロシアを牽制するだけの日英同盟への懐疑論を展開した(「日英同盟と英露同盟」、『二六新報』一九〇二年一月七日付。片山[二〇〇三]、七八二ページ)。

 『万朝報』の「日英同盟」批判は激しかった。匿名記事ではあるが、幸徳秋水の執筆であろうと片山慶雄は推測している(片山[二〇〇三]、七八四ページ)。

 同新聞は以下のような批判を打ち出した(< >内で要約)。<英国は、これまでの栄光ある孤立政策を維持できなくなったから「日英同盟」を結んだのである。英国を攻撃する可能性のある複数の国が出てきたからである。つまり、同盟を結んでしまったことによって、日本は自国の権益を保証されるどころか、英国の戦争に巻き込まれる可能性が高くなったのである。英国の方が日本よりも同盟利益は大きい。また、同盟が締結されたことで、将来日本の軍備が増強し、増税につながる流れができるであろう>(「日英同盟条約(上・下)」、『万朝報』一九〇二年二月一四、一五日付。片山[二〇〇三]、七八四〜八五ページ)。 

 『万朝報』は、内村鑑三の「日英同盟」批判も掲載している。内村は英国を信頼できない国として切って棄てる。ボーア戦争を見ても、英国は弱小国を利用し尽くして結局裏切る。英国は利益のみを求め、義理も人情も持たない。「弱国に対する英国の措置は無情傀恥の連続である。そうして日本人が同盟条約を締結したとて喜ぶ国は此無情極る英国である」(「日英同盟に関する所感(上)」、『万朝報』一九〇二年二月一七日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 内村は、日本の軍事侵略的体質を、「日英同盟」がさらに推し進めてしまうという。日本は、すでに朝鮮、遼東、台湾で大罪悪を犯しているのに、「今や英国と同盟して罪悪の上に更に罪悪を加えた」ことになる。そして、「日英同盟」は「罪悪であることを明言する」と内村は断言した(「日英同盟に関する所感(下)」、『万朝報』一九〇二年二月一九日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。ボーア戦争の経緯を見ても、英国は小国を利用し尽くして棄て去る国であり、最終的には、世界は、二、三の「強国の専有する所」となる帝国主義に突入するという危機感を、内村は訴えた(「杜軍の大勝利」、『万朝報』一九〇二年三月一六日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 一九〇二年四月八日、ロシアは清との間で「露清満州還付条約」を結んだ(4)。この条約は、半年ずつ、三回に分けて満州からロシア軍を撤退させるという密約であった。これは、露仏条約の延長でしかないが、当時の日本人は、この条約を「日英同盟」の成果と受け取ったのである。

 『日本』(一九〇二年四月一一日付)は、「満州問題の落着」と題した記事で、「日英同盟」が満州問題の解決を促したと同盟の存在を絶賛したし、『東京朝日新聞』(「満州還付条約調印」一九〇二年四月一一日付)、『毎日新聞』(「満州条約の調印、東洋平和の確保」一九〇二年四月一一日付)、『東京日日新聞』(「満州還付」一九〇二年四月一〇日付)等々、多くの新聞が同様の見解を表明した(片山[二〇〇三]、七八八ページ)。「日英同盟」批判の論陣を張っていた『二六新報』ですらロシアのバルチック艦隊が日本を襲撃しようとしても、スエズ以東の港は英国の許可なしに利用できないので、艦隊は補給面で日本攻撃が困難になるだろうとの理由で「日英同盟」を肯定的に評価するようになった(「海軍拡張」一九〇二年八月二五日付。片山[二〇〇三]、七九一ページ)。

 本章、注(1)に見られるように、「日英同盟」の前文に「極東全局の平和」が謳われ、第一条で日本が韓国において格段の利益を持つことが明記されたことは、「極東の平和」のために、韓国を侵略することの正当性を与えられたものと日本政府と軍部は解釈したがっていた。『万朝報』などがその論陣を張った(「清韓の経営」一九〇二年四月九日付、「韓国電線と日露」一九〇二年五月二六日付。片山[二〇〇三]、七九二ページ)。

 『毎日新聞』は、露骨に朝鮮人は無能なので、彼の地を発展させるためには、日本人の経営に委ねるべきであると主張した(「日韓間の経済的関係」一九〇二年六月八日付)。「日英同盟」は、日本の韓国進出を促したものであるとの解釈を示したのが『国民新聞』であった(「日英同盟及其将来(二)」一九〇二年四月一二日。片山[二〇〇三]、七九三ページ)。 そして、ロシアの満州撤兵は嘘であったことが日本の新聞に暴露されるに至って、日本の世論は韓国併合に向かって一直線に進むことになったのである(「北清時談」、『日本』一九〇二年一一月二一日付。「露国の満州占領」、『万朝報』一九〇三年一月一三日付。片山[二〇〇三]、七九九ページ)。


野崎日記(413) 韓国併合100年(52) 韓国臣下論(3)

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 二 日露戦争の奇襲攻撃

 日露戦争開戦の一か月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた政治家が戦争を回避しようと「日露同盟」案を準備しているとの情報を得ながら、日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹・東大名誉教授が二〇〇九年一二月に発見した。日露戦争についてはこれまで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で展開された「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方が日本では根強い。しかし、この新資料が正しければ、これまでの通説は崩壊する。

 和田名誉教授は、サンクトペテルスブルク(St. Petersburg)の.ロシア国立歴史文書館(Russian State Historical Archive)で、ニコラス二世皇帝(Czar Nicholas II)から信頼されていた非公式貿易担当大臣の主戦派政治家ベゾブラーゾフ(Aleksandr Bezobrazov)の署名がある一九〇四年一月一〇日付の「同盟」案全文を発見した。「同盟」案は、「ロシアが遼東半島を越えて、朝鮮半島、中国深部に拡大することは、まったく不必要であるばかりか、ロシアを弱化させるだけだろう」と分析、「ロシアと日本は、それぞれ満州と朝鮮に国策開発会社を作り、ロシアは満州、日本は朝鮮、の天然資源を開発する」ことなどを提案する内容のものであった。

 ベゾブラーゾフが「日露同盟」案を準備していることを日本の駐露外交官の手で日本の外務大臣・小村寿太郎(じゅたろう)に打電された。一九〇四年一月一日のことであった。詳しい内容が、同月一三日、小村外相に伝えられた。日本の外務省は、その電文を駐韓公使館に参考情報として転電した。和田春樹は、この転送電文を、韓国国史編纂委員会刊行の「駐韓日本公使館記録」の中から見つけた。

 当時の小村寿太郎外相は日露同盟案の情報を得ながら、一月八日、桂太郎(かつら・たろう)首相や陸海軍両大臣らと協議して開戦の方針を固め、同月一二の御前会議を経て、同年二月、ロシアに宣戦布告したのであると、共同ニュースは伝えた(共同、二〇〇九年一二月二日付。http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20091207/1260192623、和田[二〇〇九])。この文書の内容に沿ってロシアが動こうとしているとすれば、満州支配後にロシアが韓国領有に向かおうとしていたので、それを阻止すべく日本は韓国併合に出るしかなかったという司馬遼太郎的史観は崩壊するとの見方も出てきた(Japan Times, December 9, 2009)。

  しかし、開戦が近いことは、ロシア当局も十分承知していたであろうし、一片の電報で日本が開戦を思い止まるなどと思うほど、ロシアの軍部、政府は甘くはなかったはずである。資料発見は大きな成果だが、この電文程度で、日本政府も開戦を中止したとはとても思われぬことである。

 周知の史実であるが、少し、日露開戦前後のことを整理したおこう。

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋(やまがた・ありとも)らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨(かおる)ら戦争回避派とが対立していた。一九〇三年四月二一日、山縣の京都における別荘・無鄰菴(むりんあん)で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が開かれ、満洲については、ロシアの優越権を認めるが日本は韓国を確保すべく、日露開戦やむなしと述べたが(徳富編[一九三三]、五三九〜五四一ページ)、実際には伊藤の慎重論が優勢であったと言われている

 一九〇三年八月から開始された日露交渉で、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案したが、ニコライ二世などの主戦派によってその提案は一蹴された。そして、一九〇四年二月六日、外務大臣・小村寿太郎が、ロシア公使に国交断絶を言い渡した。

 一九〇四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。まだ、宣戦布告を日本側はしていなかった。日本艦隊は、同日夜、旅順港(Port Arthur)に停泊していたロシア艦隊の半数を拘束した。港外で哨戒の任に当たっていた二隻のロシアの駆逐艦が、日本の駆逐艦一〇隻から攻撃を受け、慌てて港内に逃げ込み、ロシア艦隊に急襲を知らせたが、日本の駆逐艦が船尾に張り付き、ロシアの哨戒艇や軍艦を包囲してしまった。ロシア艦隊の乗組員たちは飲酒のために上陸していて、なす術がなかった。東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)率いる日本艦隊は、機雷を港外に配置し、ロシア艦隊の脱出を妨害した。それは、後の真珠湾攻撃で米国が抱いたものと同じ憤激をロシア側に与えた( http://constantineintokyo.com/2009/12/22/112/)。

 宣戦布告前の奇襲攻撃は韓国でも行なわれた。二月八日、日本陸軍先遣部隊の第一二師団が仁川(Incheon)に上陸した。日本海軍の巡洋艦群が、同旅団の護衛に当たった。日本の艦隊が、仁川港に入港する際に、偶然出港しようとしたロシアの航洋砲艦・コレーエツ(Koreets)が、すれ違う時に儀仗隊(ぎじょうたい=捧げ銃の敬礼を行なう役目を担う隊)を甲板に並べて敬意を表した。しかし、日本の水雷艇が魚雷攻撃をかけ、コレーエツは、慌てて一発砲撃して引き返した。



 そして、二月九日、仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船に退去勧告を行ない、退去しない場合は攻撃を加える旨を日本艦隊が伝えた。ところが、この退避勧告によって仁川港から出航したロシア艦隊は、待ち構えていた日本艦隊に砲撃され、一等防護巡洋艦・ヴァリャーグ(Varyag)は大破し、仁川港に引き返し、乗組員を上陸させた後、「コレーエツと共に自沈した(http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/mil/jinsen.html)。後に、ヴァリャーグは引き上げられ、二等巡洋艦・宗谷として日本海軍に編入された。

野崎日記(414) 韓国併合100年(53) 韓国臣下論(4)

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 三 「万世一系」と征韓論―皇帝・天皇・王

 「日英同盟」は、三次まで改訂された。「第二次同盟」は、一九〇五年、日露戦争後に「第一次同盟」を改訂したものであるが、四年しか続かなかった。「第三次日英同盟」は、一九一一年七月一三日に締結され、一九二三年八月まで続いた。この「第三次同盟」は過去の二つの同盟とは質を異にしていた。一九〇五年の日露戦争における日本の勝利と一九一〇年の日本による韓国併合という東アジアにおける地政学上の変化が、一九一一年の「日英同盟」を大きく規定した。もはや、完全に日本の国威発揚に日本側が最大限利用したものになっていた。

 このことを明らかにする手掛かりが、一九一〇年の五月一四日から一〇月二九日まで、ロンドン西部のシェパード・ブッシュ(Shepherd Bush)で開催された日英博覧会(The Japanese-British Exhibition of 1910)にある。

 この博覧会は、元駐英全権大使、時の外務大臣・小村寿太郎に負うところが多かった。日本側経費は一八〇万円であった。二〇万坪の敷地に、甲園・乙園、二個所の日本庭園を六〇〇〇坪の広さで造営した。設計には、小沢圭次郎(けいじろう)、本多錦吉郎(きんきちろう)、清水仁三郎(にさぶろう)、井沢半之助(はんのすけ)らが当たったが、甲園は小沢、乙園は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして作庭している。井沢は、一九〇九年一二月から、一九一〇年五月まで造営作業に従事した。植木職人三名が同道した。建築には、農商務省技師榎本惣太郎(えのもと・そうたろう)と大工四名が派遣されていた(http://www.sekkeiron.exblog.jp/2906162/)。造営作業をビクトリア女王が見学して、日本の作業者を感激させたという(The Daily Telegraph, 15 March, 1910)。

 この博覧会は、「日英同盟」を記念して開催されたものである。日本政府は乗組員八〇〇名からなる巡洋艦・生駒(いこま)を、博覧会に近いウラベセンド(Gravesend)港に停泊させた。日本海軍力の誇示である。乗組員全員が英国側の晩餐会に招かれたという(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34083/.../115_PL21-58.pdf)。

 二〇〇九年四月五日(日)午後九時から、NHKが、NHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー、第一回、アジアの“一等国”」を放映した。そこで、この日英博覧会が取り上げられた。そして、NHKは、以下のようなコメントを出した。

 「日本は、会場内にパイワン(注、台湾南部に住むインドネシア語系に属する原住民である高砂族の一種族)の人びとの家を造り、その暮らしぶりを見せ物としたのです」。「当時イギリスやフランスは、博覧会などで、植民地の人びとを盛んに見せ物にしていました。人を展示する『人間動物園』と呼ばれました。日本は、それを真似たのです」。

 このコメントについて、NHKは後日、釈明している。
 「イギリスやフランスは、博覧会などで被統治者の日常の起居動作を見せ物にすることを『人間動物園』と呼んでいました。人間を檻の中に入れたり、裸にしたり、鎖でつないだりするということではありません。フランスの研究者ブランシャール(Kendall Blanchard)

氏が指摘するように『野蛮で劣った人間を文明化していることを宣伝する場』が人間動物園です。番組は、日本が、イギリスやフランスのこうした考え方や展示の方法を真似たということを伝えたものです。日本国内では、日英博覧会の七年前、一九〇三年、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、『台湾生蕃』や『北海道アイヌ』を一定の区画内に生活させ、その日常生活を見せ物としました。この博覧会の趣意書に『欧米の文明国で実施していた設備を日本で初めて設ける』とあります。こうした展示方法は大正期の『拓殖博覧会』や一九一〇年の『日英博覧会』に引き継がれます」。

 「日英博覧会についての日本政府の公式報告書『日英博覧会事務局事務報告』によれば、会場内でパイワンの人びとが暮した場所は『台湾土人村』と名付けられています。『台湾日日新報』には次のように記されています。『台湾村の配置は、台湾生蕃監督事務所を中心に、一二の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前一一時から午後一〇時二〇分まで、ずっと座っている。観客は六ペンスを払って、村を観覧することができる』。また、『東京朝日新聞』の『日英博たより』(派遣記者・長谷川如是閑(にょぜかん))には『台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である』」とあります。日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan-British Exhibition)には『台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた』と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで『我々(イギリス)は、東洋の帝国が“植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める』と記しています」(http://www.nhk.or.jp/japan/asia/index.html)。

 帝国主義の思想的基盤は、自国が文明の担い手であるという思い込みにある。日英博覧会はその具体的な現れであった。こうした姿勢は、幕末・明治初期の征韓論にもあった。日本の天皇の「万世一系」論がそれである。

 江戸時代の主流学問であった朱子学は、中国を「華」と敬い、周辺国を「夷」と卑しむ華夷思想であった。朱子学における華夷思想に「名分論」(めいぶんろん)というものがある。中国皇帝の権威を人倫秩序の淵源に見立てるという考え方がそれである。この思想によれば、日本は中国皇帝にひざまずかなければならない。こうした朱子学による中国皇帝の権威に対抗する日本独自の価値原理を打ち立てるべく、日本の天皇を尊しとする尊王思想が浮上することになる。それが、日本の天皇の「万世一系」論である。

 中国の王朝は、易姓革命により変遷するとの思想があった(5)。易姓とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命が改まって、王朝が交替すること。天が、命を下して、徳のある者を天子となして人民を治めさせる。天子や王朝の徳が衰えて、人民の信頼がなくなれば、天が、天変地異などを起こして、その天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせて、人民を支配させるというのが、中国の易姓革命論である。王朝は、同じ血統(姓)を続けるが、王朝交代の際には王室の姓が変わることから、易姓革命という。姓(せい)を易(かえ)命(めい)を革(あらたむ)という意である(三省堂『新明解四字熟語辞典』より。出典『史記』の『暦書』)。

 この思想が中国に広く受け入れられたために、新王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明すべく、前王朝の歴史編纂が、新王朝の重要な仕事となったと考えられる(http://www.allchinainfo.com/some/yixing.html)。

 このような中国に比して,日本は易姓革命の生じる余地がなく、万世一系の天皇家が永続しているというのが、王政復古論の背後にあり、これが、日本の道義的優越性を示すものと主張された。

野崎日記(415) 韓国併合100年(54) 韓国臣下論(5)

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 ペリー来航は,志士達の危機意識を掻き立て、近隣諸国を切り従えて日本の勢力圏を築き、これに拠って列強に対抗するべしとする拡張主義を生むに至った(以下は、吉野[二〇〇四]に依拠している。  http://homepage2.nifty.com/k-todo/bunnmei/eastyourasia/japan/eastajia/seikannronn.htm)。

 ペリー来航に対して、列強と和親条約を締結する幕府の姿勢を見て,幽囚中の吉田松陰は書簡の中で「魯(ロシア)・墨(アメリカ)講和一定す。決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし,其の間を以て国力を養ひ,取り易き朝鮮・満州・支那を切り随へ,交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と書き送った。

 松陰は、攘夷の主体としての日本,「吾が宇内に尊き所以」「我が国体の外国と異なる所以」を認識すべきだと説いた。松陰によれば、日本の「国体」とは,易姓革命を思想の根本にすえる中国に対して、「万世一系」の天皇統治にある。中国の伝統的政治思想は、「人民ありてしかるのちに天子あり」であるのに対して、日本は「神聖ありてしかるのちに蒼生あり」である。中国における臣下は、自分を認めてくれる主君を求めて去就を決める「半季渡りの奴婢」の如きものであるのに対して、日本の場合は譜代の家臣であり、主人が死ねといえば喜んで死ぬ、絶対的な君臣関係なのだとする(『言志後録』(一六))。

 こうした松陰の理念は、遡れば「忠臣蔵」の情感に通じるものであり、近年では、太平洋戦争末期の神風特攻隊に象徴的に表現されたものである。

 このような思想に立てば、日本がその「国体」を輝かせていた神功皇后や豊臣秀吉の征韓事業こそ「善く皇道を明かにし国威を張る」もので、「神州の光輝」と称揚されることになる。その意味で、征韓事業が、国体論の基礎に置かれ、日本の使命として遂行されるすべき事業として聖化されることになる。

 徳川幕府は、清との間で正式の外交関係を取り結ばなかったが、徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った朝鮮通信使を受け入れていた。その回数は一二回を数えた。その際、両国の交渉は対馬藩を介して行なわれた。

 朝鮮国王と徳川将軍が交わす国書の名義が問題であった。朝鮮側は、中国の臣下を示す「朝鮮国王」でもこだわらなかったのであるが、幕府として、それは受け容れ難い。しかし、朝鮮側からすると、日本側の国書も「日本国王」名義のものでなければ対等性が保てない。しかし、日本側の征夷大将軍というのは天皇の臣下の役職であって、将軍が「日本国王」を名乗るのは天皇との関係上、難しい。また、日本側が、「朝鮮国王」と同等の「日本国王」という称号を用いると、日本が中国皇帝の権威を認めることになってしまう。そこで、将軍の国書は「日本国源家光」のような形式にして称号を名乗らず、朝鮮国王からの国書の宛先は「日本国大君」とする形が取られていた。日本による朝鮮宛の国書には、朝鮮国王を「朝鮮国大君」と呼び、徳川将軍と朝鮮国王は台頭の関係であるという配慮を徳川幕府は示していたのである。

 しかし、明治維新により天皇が統治権者として復活したので、日朝関係における名分(めいぶん)問題を解決しなければならなくなった。

 江戸時代には、徳川将軍と朝鮮国王は対等の関係であった。しかし、王政復古が実現した以上、徳川将軍より上の天皇が、名実とみに最高の統治者になった。とすれば、朝鮮国王と日本の天皇はどういう位置関係になればよいのか。徳川将軍と同等の位置にあった朝鮮国王は、天皇に対して臣下の礼を取るべきではないのか。朝鮮は、『記紀』に記されているように、日本の属国となるべきではないのか。これが、明治に入って解決しなければならない名分問題であった。そして、対馬藩を経由して王政復古を伝える朝鮮国王宛の日本の国書の宛先は、それまでの「朝鮮大君」から「朝鮮公」に格下げにした。このことから、朝鮮は、日本側の王政復古の通知の受け取りを拒否した。征韓論はこうしたことへの日本側の憤りから発生した。朝鮮国王は、日本の最高統治者である天皇の臣下に位置づけなければならなかったのである。王政復古、万世一系、征韓論は、まさにこうした名分論から生じたものである。

 清、ロシアと戦争までして領有した朝鮮こそは、王政復古の理論的帰結として日本の権力者たちは了解していたのである。

 おわりに

 韓国併合から一〇〇年。残念ながら、日本では、この年を契機として、アジアにおける日本の歴史的位置づけと現在の日本の選択肢に関わる大きな討論は巻き起こらなかった。むしろ、日本のナショナリズムの昂揚がマスコミによって煽られた。

 韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年、東アジアの海に緊張が走った。尖閣諸島問題もその一つである。尖閣諸島は、日本の固有の領土であるとの声が高くなっているが、沖縄返還後の尖閣諸島には、日本の実効支配を示す標識は整備されず、諸島の中の北小島と南小島の標識が入れ替わっていたことさえも気付かれなかった(『八重山毎日新聞』[一九九五])。

 沖縄返還に際して、米国務省は、米国が施政権を有する南西諸島の施政権を一九七二年中に日本に返還すること、南西諸島には尖閣諸島も含まれることと説明した。しかし、「この問題に主張の対立がある時には、関係当事者の間で解決されるべきこと」と、米国は、中国と日本との領有権争いに巻き込まれたくないとの姿勢を示していた(比嘉[二〇一〇]、一四〜一五ページ)。

 尖閣諸島が、日本領土であるとの公式見解は、一九七二年三月八日の衆院沖縄・北方問題特別委員会における福田赳夫(たけお)外務大臣(当時)の答弁であった。要約する。



 (1)一八八五年以降、調査を継続していた日本政府は、尖閣諸島が無人島で清国の支配が及んでいないことを確認、一八九五年一月一四日の閣議決定で正式に尖閣諸島を日本の領土とした。

 (2)日清戦争の下関条約(一八九五年四月一七日締結)では、尖閣諸島には触れられなかった(つまり、清はその時点で尖閣諸島を日本の固有の領土であると認識していた)。

 (3)一九七一年六月一七日調印の沖縄返還協定で、施政権の返還対象に尖閣諸島が明示されていた。

 (4)尖閣諸島を日本の固有の領土と認定したサンフランシスコ平和条約(一九五一年九月)第三条に、中国は異を唱えなかった。

 尖閣諸島が日本の固有の領土であることの根拠を、日本政府は上記のことを繰り返し強調してきた。しかし、その論理にはかなり無理がある。一八九五年の閣議決定は、日清戦争で日本が勝利を確実なものにした一八九五年一月一四日に行なわれたものである上、公然と領土宣言を内外に発したものではなかった。下関条約が四月一七日よりほぼ三か月前の一月一四日にすでに日本が領有していたものだから、戦争で清からもぎ取ったものではないというのが日本政府の見解である。しかし、それは詭弁というものであろう。戦争集結前だが、戦争中にもぎ取ったことに変わりはないからである。尖閣諸島は、戦争でもぎ取ったものである。

 上のような事情があるにもかかわらず、多くの日本人がいとも簡単に、「先覚諸島は日本の領土である」と思い込んでしまった。日本人は、東アジア関係史を理解する絶好の機会を見過ごした。メディアがそうした機会を提供してこなかったからでもあるが、日本の歴史教育が教育の体裁をなしていないことがもっとも深刻な問題である。

野崎日記(416) 韓国併合100年(55) 韓国臣下論(6)

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 注

(1) 「日英同盟」本文[外務省発表原文]

 [前文]
 日本国政府及大不列顛国政府ハ偏二極東二於テ現状及全局ノ平和ヲ維持スルコトヲ希望シ且ツ清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト及該二国二於テ各国ノ商工業ヲシテ均等ノ機会ヲ得セシムルコトニ関シ特二利益関係ヲ有スルヲ以テ茲ニ左ノ如ク約定セリ

 [第一条]
 両締約国ハ相互二清国及韓国ノ独立ヲ承認シタルヲ以テ該二国敦レニ於テモ全然侵略的趨向二制セラルルコトナキヲ声明ス 然レトモ両締約国ノ特別ナル利益二鑑ミ即チ其利益タル大不列顛国二取リテハ主トシテ清国二関シ又日本国二取リテハ其清国二於テ有スル利益二加フルニ韓国二於テ政治上拉二商業上及工業上格段二利益ヲ有スルヲ以テ両締約国ハ若シ右等利益ニシテ列国ノ侵略的行動二因リ若クハ清国又ハ韓国二於テ両締約国敦レカ其臣民ノ生命及財産ヲ保護スル為メ干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生二因リテ侵迫セラレタル場合ニハ両締約国敦レモ該利益ヲ擁護スル為メ必要欠クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス

 [第二条]
 若シ日本国又ハ大不列顛国ノ一方カ上記各自ノ利益ヲ防護スル上二於テ列国ト戦端ヲ開クニ至リタル時ハ他ノ一方ノ締約国ハ厳正中立ヲ守リ併セテ其同盟国二対シテ他国カ交戦二加ハルヲ妨クルコトニ努ムヘシ

 [第三条]
 上記ノ場合二於テ若シ他ノ一国又ハ数国カ該同盟国二対シテ交戦二加ハル時ハ他ノ締約国ハ来リテ援助ヲ与へ、協同戦闘二当ルヘシ講和モ亦該同盟国ト相互合意ノ上二於テ之ヲ為スヘシ

 [第四条]
 両締約国ハ敦レモ他ノ一方ト協議ヲ経スシテ他国卜上記ノ利益ヲ害スヘキ別約ヲ為ササルヘキコトヲ約定ス

 [第五条]
 日本国若クハ大不列顛国二於テ上記ノ利益カ危殆二迫レリト認ムル時ハ両国政府ハ相互二充分二且ツ隔意ナク通告スヘシ

 [第六条]
 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ実施シ該期日ヨリ五箇年間効力ヲ有スルモノトス 若シ右五箇年ノ終了ニ至ル十二箇月前ニ締約国ノ孰レヨリモ本協約ヲ廃止スルノ意思ヲ通告セサル時ハ本協約ハ締結国ノ一方カ廃棄ノ意思ヲ表示シタル当日ヨリ一箇年ノ終了ニ至ル迄ハ引続キ効力ヲ有スルモノトス 然レトモ右終了期日ニ至リ一方カ現ニ交戦中ナルトキハ本同盟ハ講和結了ニ至ル迄当然継続スルモノトス

 以下は、英文
 Article 1. The High Contracting parties, having mutually recognized the independence of China and Korea, declare themselves to be entirely uninfluenced by aggressive tendencies in either country. having in view, however, their special interests, of which those of Great Britain relate principally to China, whilst Japan, in addition to the interests which she possesses in China, is interested in a peculiar degree, politically as well as commercially and industrially in Korea, the High Contracting parties recognize that it will be admissable for either of them to take such measures as may be indispensable in order to safeguard those interests if threatened either by the aggressive action of any other Power, or by disturbances arising in China or Korea, and necessitating the intervention of either of the High Contracting parties for the protection of the lives and properties of its subjects.

 Article 2. Declaration of neutrality if either signatory becomes involved in war through Article 1.

 Article 3. Promise of support if either signatory becomes involved in war with more than one Power.

 Article 4. Signatories promise not to enter into separate agreements with other Powers to the prejudice of this alliance.

 Article 5. The signatories promise to communicate frankly and fully with each other when any of the interests affected by this treaty are in jeopardy.

 Article 6. Treaty to remain in force for five years and then at one years’ notice, unless notice was given at the end of the fourth year.

 この条文について、吉田茂が興味あるコメントを出している。 
 「この条約のエッセンスは第一条にある。日英両国ともここに最大の力点をおいて交渉した。条文のうち『列国ノ侵略的行動二因リ』というのが第一のポイントである。

 つまり、中国または韓国に(両方とも香港や日本本土への侵略を念頭においていないことに注意)列国(ヨーロッパ五大国をさし具体的にはロシアであり副次的にフランス)が、先制攻撃をして以降、防衛義務が生じる。

 第二条について日本語(外務省)訳は訳しすぎると思われるが、いかがだろうか?
  そして、この条約締結公表の一年三カ月後、ロシアは韓国領内龍岩浦に砲台を建設したわけである。これは当時のあらゆる角度からみてロシアの韓国への侵略であり、この条約の第一条に該当する。

 フランスは直ちにロシアに注意を喚起し、砲台の建設自体は中途半端なものとして終わった。そして、この事件は『鴨緑江事件』として直ちにヨーロッパで問題となった。ニコライ二世がこの条約を知りながらなぜ、龍岩浦事件を引き起こしたのか謎とされるところである。
 第二のポイントは中国と韓国における暴動について規定していることである。すなわち、イギリスにとって、この条約の最大の眼目は揚子江流域に居住するイギリス人の保護のため、日本兵を期待することにあった」(http://ww1.m78.com/sib/anglojapanesetreaty.html)。

(2) 憲政本党は、一八九八年に進歩党と分かれてできたものである。この年、進歩党は憲政党と憲政本党に分裂したのであるが、当時の新聞は、憲政本党を旧名の「進歩党」と呼ぶのが習慣であった(片山[二〇〇三]、注9、七六六ページ)。

野崎日記(417) 韓国併合100年(56) 韓国臣下論(7)

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(3) 政友会は、一九〇〇年九月一五日、藩閥政治に反発し、政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した政党である。伊藤自身が初代総裁となり、星亨(とおる)、松田正久、尾崎行雄(ゆきお)、伊東巳代治(みよじ)、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)、金子堅太郎(かねこ・けんたろう)、片岡健吉らが中心となった。帝国ホテルに事務所を設置した。一九〇〇年一〇月一九日、政友会を中心に第四次伊藤内閣が成立。しかし、北清事変対応のための増税案が貴族院で否決され、一九〇一年六月二日、伊藤内閣は総辞職した。その後、陸軍大将の桂太郎が第一一代内閣総理大臣に任命され、一九〇一年六月二日から一九〇六年一月七日までその内閣は続いた(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/10-Itou-vol4.htm)。

 当初、井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。桂内閣は、山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、議会における与党は帝国党のみであった。伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/11-Katsura-vol1.htm)。

(4) 「露西亜全国皇帝陛下、及び清国皇帝陛下は、一九〇〇年、中国に於いて発生したる騒擾の為め、破られたる善隣の関係を回復し、且つ強固にするための目的を以て、満州に関する諸問題に対し、協定を遂ぐる為め、互にポール、レッサル並に慶親王、及び王文韶を全権委員に任命せり。右全権は左の諸条を協議決定せり。

 第一条 全ロシア皇帝陛下は、清国皇帝陛下に対し、其の友情の感念及び平和を愛することを、新に表彰せんと欲し、前に満州境界の各地に於て、清国が露西亜臣民に向かいて、先づ攻撃を加えたる事実は不問に付し、依然満州を清国の一部として、同域内に於ける、清国政府の権威を回復することを承諾し、且つ露西亜軍隊占領以前の如く、統治及び行政の権を、清国政府に還付す。

 第二条 清国政府は、満州の統治、及び行政権を回復するに当り、一八九六年八月二十七日、露清銀行と締結せる契約の条項を、該契約の他条項と同様確守するの責を受け、又該契約第五条に準拠し、極力鉄道及び該職員を保護するの義務に任じ、且つ均しく責任を以て、満州在留の露西亜国民、及びその創設せる事業の安全を擁護することを承諾す。清国政府にて既に上記の義務を負担せる以上、露国政府は事変の生起することなく、又或は他国の行動の為に妨害せられざる限りは、左の順序に従い、満州より其軍隊の全部を逓次撤退することを承諾す。

 一、本条約調印後六箇月以内に、盛京省の西南部遼河に至る地方に駐屯せる露西亜軍隊を撤退して、鉄道を清国に還付す。

 二、次の六箇月以内に盛京省の残兵、及び吉林省に駐屯せる、露西亜軍隊を撤退す。
 三、次の六箇月以内に、黒竜江省に駐屯せる、露西亜軍隊の残部を撤退す。

 第三条 露西亜国政府、及び清国政府は、一九〇〇年に露西亜国境上に於て、清国兵の起したる如き、変乱の再発を将来に排除するの必要を鑑がみ、露西亜国兵撤退以前は、露西亜軍務官、及び各将軍に命じ、満州駐屯の清国の兵数、及び駐屯地を協定せしめ、又清国政府は、露国軍務官と各省将軍との間に協定したる、兵数以外の軍隊を組織せざることを約するも、その兵数は匪徒を鎮圧して地方の平和を維持するに足るを要す。

 全然露西亜国軍隊撤退後は、清国は満州駐屯軍隊を増減するの権を有す。尤も其の増減は、随時露西亜国政府に通知を要す。其は清国にては各地方に多数の兵を備うとせば、露西亜国も亦た其の附近に於ける各地に、相当の軍隊を添加せざるべからず。従って両国は空しく軍費増加の不利益を見る事、自ら瞭然たればなり。

 東清鉄道会社に給付したる合(各?)地域を除き、上記地方の警察、及び秩序維持の為め、地方将軍及び露国軍務官は、清国臣民より成る騎歩の憲兵隊を組織すべし。

 第四条 露西亜国政府は、一九〇〇年九月下旬以来、露西亜国軍隊が占領保護したる山海関、営口、新民庁の各鉄道を清国政府に還付することを承諾するが為め、清国政府は左の条項を約す。

 一、上記鉄道線路の安全を確保するの必要ある時は、清国政府自ら其責に任ずべく、決して他国に該鉄道防守、経営及び敷設を受負わしめ、或は分担せしむることある可からず。且つ他国に露西亜国か還付せし所の各地点を占領することを許す可からず。

 二、上記鉄道の完成及び経営に関する各節は、総て一八九九年四月十六日付け、露西亜大不列顛間協約と、一八九八年九月二十八日、上記鉄道敷設借款に関し、一私立会社と締結したる契約に準拠し、該会社負担の義務を守る可し。即ち殊に山海関、営口、新民庁鉄道の占有、又は何等の方法にても、之を処分せざるの義務を守らしむ可し。

 三、将来、満州南部に該鉄道を延長し、支線を敷設し、或は営口に橋梁を架設し、又は現に山海関に在る楡営鉄道の終点を移すの計画ある時は、露西亜国及び清国、両政府間に協議を経たる後、之を為す可し。

 四、還付に係る山海関、営口、新民庁各鉄道の修繕、及び、及び経営に関する露西亜国の失費は、償金総額以外なるを以て、清国政府は更に之を露西亜国に償還す。右償還の金額は、両国政府にて協定すべし。

 露西亜国及び清国間に於ける、在来の諸契約にして、本条約に依り変更せられざるものは依然有効たる可し(徳富蘇峰編[一九一七]より)。

 この条約は露清間の密約であり、ロシアは二国間の問題だとして、他国に知られることを嫌った。本文は清国民には伝わらず、日本において残存した。

 ロシアは北清事変の後始末のため、満州におけるロシア軍の撤退を約束したものであるが、清国がロシアにたいして交渉力を持ちえたとは考えられない。同時代の日本人は、この条約は「日英同盟」締結がロシアをして譲歩せしめたと考えた。しかし「日英同盟」締結からは日が開きすぎている。ロシア譲歩の理由は、フランスとの露仏同盟のアジアへの延長宣言であろう。フランスは共同宣言への見返りとしてロシアに撤兵宣言を強要したのだろう。ロシアは、清国はどうにでもなる国と思っていたので、あまり重要でない条約、すなわちいつでも破棄できるものとして調印に応じたものと思われる(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/manchuria%20evacuation.html)。

(5) 古代中国で、王朝が交替するときの二つの方法が対比された。「禅譲」と「放伐」である。「禅譲」は、君主が徳の高い人物に帝位を譲ることであり、「放伐」は悪逆で帝位にふさわしくない君主を有徳の人物が討伐することである(三省堂『新明解四字熟語辞典』、出典、『孟子』「梁恵王」(下))。

 中国の漢時代(紀元前二〇六〜紀元後二三年)に書かれた本格的歴史書である司馬遷(紀元前一四五〜紀元前九〇年?)の『史記』(紀元前九一年?)によれば、伝承ではあるが、古代中国には、三皇五帝の時代があったとされる。三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神(または、天皇、人皇、地皇)、五帝とは、黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜帝(しゅんてい)である。とくに、尭舜(ぎょうしゅん)時代は、治水事業が進み、天子も平和的に継承され(禅譲という)、孟子など儒家によって理想的な時代とされた。舜から禅譲を受けたのが夏王朝の始祖とされる禹(う、紀元前二〇七〇年頃)である。

 夏王朝は、紀元前一六〇〇年頃まで続いたとされる。そして、殷王朝(紀元前一七世紀頃 〜紀元前一〇四六年頃)、周王朝(紀元前一〇四六年頃〜紀元前二五六年)と続く(http://oisoharu.way-nifty.com/blog/2010/11/post-d0bb.htmlなど)。

野崎日記(418) 韓国併合100年(57) 韓国臣下論(8)

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引用文献

伊藤之雄[一九九九]、「日露戦争以前の中国・朝鮮認識と外交論」(京都大学法学部百周年
     記念論文集刊行委員会編[一九九九]所収。
片山慶隆[二〇〇三]、「日英同盟の成立と日本社会の反応」『一橋法学』第二巻、第二号。
京都大学法学部百周年記念論文集刊行委員会編[一九九九]、『京都大学百周年記念論文集
     ・第一巻』有斐閣。
君塚直隆[二〇〇〇]、「伊藤博文のロシア訪問と日英同盟―イギリス政府首脳部の対応を
     中心に」『神奈川県立外語短期大学紀要・総合篇』第二三巻、一二月。
徳富蘇峰編[一九一七]、『公爵桂太郎伝』(乾)故桂公爵記念事業会。『明治百年史叢書・
     第四九巻』原書房、二〇〇四年。
徳富蘇峰編[一九三三]、『公爵山縣有朋伝』(下)山縣有朋公記念事業会、一九六九年復刻、
     原書房。
比嘉康文[二〇一〇]、「尖閣列島と琉球」、『情況』二〇一〇年一二月・二〇一一年一月合
     併号。
ベルツ、トク編、菅沼竜太郎訳[一九七九]、『ベルツの日記』(上)岩波文庫。
『八重山毎日新聞』[一九九五]、「上陸・尖閣諸島・下」、六月二二日付。
吉野誠[二〇〇四]、『東アジア史のなかの日本と朝鮮』明石書店。
和田春樹[二〇〇九]、『日露戦争、起源と開戦(上・下)』岩波書店。
Nish, Ian[1966], The Anglo-Japanese Alliance: The Diplomacy of Two Island Empires :
          1894-1907, Athlone Press

野崎日記(419) 韓国併合100年(58) 日本の仏教(1)

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 韓国併合と日本の仏教

 はじめに

 民衆の心を掴む理念として宗教以上に強力なものはない。政治的理念の寿命は数百年も持続するだけで奇蹟としかいえないのに、宗教は数千年は生き延びる。権力は、宗教のこのとてつもない力を利用してきたし、権力に従いたくない民衆は、自らの宗教の保持に命を懸けてきた。

 朝鮮の仏教も例外ではない。朝鮮の仏教は、五世紀の新羅(Silla)時代から一四世紀の高麗(Goryeo)時代までの九〇〇年間、権力者と民衆の双方の心を捕らえてきた。李(I)朝の弾圧や日本の支配を受け続けた。しかも、日本の権力の手先になっているとして、日本の植民地支配に抵抗すべく、民衆を組織できたキリスト教から攻撃され続けた。日本の植民地支配から脱した後、独立運動を組織化できた韓国のキリスト教は、都市部を中心に勢力を拡大した。

 朝鮮の仏教が、日本の植民地支配に利用された経緯を、このプログで説明したい。


 一 朝鮮の仏教略史


 仏教が、中国から朝鮮半島に伝来するようになったのは、中国の南北朝時代からである。仏教は、三七二年に高句麗(Goguryeo)、三八四年に百済(Baekje)、新羅には、それよりかなり遅れて、五二七年に導入された。いずれも、護国仏教の色彩が強いものであった。例えば、新羅では、国土は仏の支配する地(仏国土)であり、王は仏の家族である。そして、弥勒菩薩の化身である「花郎」(Hwarang)が人々を守るという考え方が浸透していた(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_002.htm)。



 花郎というのは、新羅のエリート青年組織で教育的機能を帯びた宗教的機関である。上級貴族の一五、一六歳の子弟を「花郎」とし、その下に多くのの青年が「花郎徒」(Hwarangdo)として組織されていた。花郎は、山中で精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立っていた。彼らは、弥勒菩薩の化身とされていた。弥勒菩薩とは、釈迦の入滅から五六億七〇〇〇万年の後に人間界に現れて民衆を救うと信仰されていた仏である(http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/faran.html)。



 新羅の仏教は華厳宗が有力な宗派であった。華厳宗は、「大方広仏華厳経」という大乗仏教の経典の一つを教義とするものである。それは、大方広仏、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。華厳とは別名雑華ともいい、雑華によって仏を荘厳することを意味する。原義は「花で飾られた広大な教え」である(http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/kegon1.html)。新羅時代の九世紀、地方の寺院や豪族の間で禅宗が信仰されるようになっている。

 高麗時代に入ると、仏教は王族の支援を受けるようになる。初代高麗王(在位、九一八〜四三年)の太祖(Taejo)・王建(Wangon)は、九四三年の死去の直前に、高麗の後代の王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を書き、その第一条に仏教を崇拝すると宣言したことに見られるように、高麗時代の仏教は手厚く保護されていた(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh015.html)。高麗時代の仏教寺院は、広大な土地を所有しており、商業や金融(高利貸し)をも支配していた。

 高麗時代に、仏教思想と風水思想が融合した。この時代に創建された多くの寺が風水地理でいう明洞(Myeongdong)に建てられている。明洞とは、風水的にもっとも恵まれた地のことである。現在のソウル随一の繁華街の明洞には、この意味がある。また、密教の影響も大きく、石塔などにその影響が見られる。

 高麗王朝時代に入って、華厳宗と禅宗を融合しようとする天台宗が中国から伝来した。一〇九七年に高麗に天台宗を導入した義天(一〇五五〜一一〇一年、Uichon)は、教(仏の教え)と観(禅宗の参禅)を折衷した僧であるとされている(http://r-m-c.jp/story/story04.html)。 

 曹渓宗(Jogyejong)も高麗時代に成立した。これは、禅系仏教宗団であり、現在の韓国でも、「大韓仏教曹渓宗」として韓国仏教で最大の勢力を有する。仏日普照国師・知訥(一一五八〜一二一〇年、Chinul)を開祖とする。知訥は禅によって天台・華厳などの教学を包摂する教えを説いた。曹渓宗は民衆に、天台宗は上流階級に浸透したと言われている(http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index65.htm)。

 しかし、高麗時代に全盛時代を迎えた半島の仏教は、次の李朝になると一転して激しい弾圧にさらされることになった。

 高麗朝を倒した李朝は、国家財政の確保が急務であったために、寺院財産を没収する政策を取った。

 朝鮮王朝の五〇〇年間、仏教は権力によって弾圧され続けた。僧侶たちは、町から追放され、山岳に追いやられた。それは、日本の圧力によって出された一八九五年の「都城出入禁止解禁」まで継続させられた。

 日本による朝鮮支配は、この弾圧されていた朝鮮仏教を救済し、インテリ層の中に親日派を作り出すことによって可能になったものである。それは、朝鮮独立運動を組織する西欧キリスト教に対抗する意味をも持っていた。

 しかし、半島の仏教は、日本の教団の支配を受けることになった。そのこともあって、独立後の韓国の仏教は、日本の支配を歓迎していたとして、いまだに多くの人々によって糾弾されている。日本の仏教が到来するまでは、半島の僧侶は妻帯していなかったのに、日本の仏教との接触によって妻帯するという堕落をしたとして非難されたのである。妻帯した僧侶は帯妻僧侶と呼ばれていた。

 当時の李承晩(I Seung-man)・韓国大統領は、日本の支配下で実験を握っていた帯妻僧侶を追放すべく、朝鮮戦争の休戦が成立した翌年の一九五四年五月に「仏教浄化に関する論示」を発表した(曹渓宗総務編[一九五七]、一〇から一一ページ)。帯妻僧侶は、新権力からも、米国新政権からも迫害されてきたのである。
 


野崎日記(420) 韓国併合100年(59) 日本の仏教(2)

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 二 李朝による高麗仏教の特権の剥奪

 高麗時代の僧侶には、国王の師となる王師(おうし)とか国民全体の師である国師(こくし)などの最高位の地位などが用意されていた。仏教寺院の田畑は寺領と呼ばれた。王族から膨大な寺領が寺院に寄進され、免税であった(鎌田[一九八七]、一五五ページ)。僧侶には飯僧として食事も無料で供されていた。一〇一八年には一〇万人の僧に食事が供されたという(同上、一五六ページ)。こうした安逸を得るために、農民から僧になる者も多かった。

 さすがに、一三二五年には、出家を制限すべく度牒(どちょう)制度が強化された。度牒とは、東アジアの律令制で、国家から僧侶になることを許可した認証状のことである。一定の金や物資を国に納めれば僧侶になることが許されるという制度であるが、これが高麗朝の財政難とともに、強化されて行ったのである。しかし、寺領の拡大や経済力の増大とともに、僧兵が増え、国家権力を脅かすようになった。

 高麗時代には、僧科(そうか)という僧侶になる国家試験制度ができた。これは、科挙の制度と平行して実施されていた。また、仏教に関する行事を主管する僧録司(そうろくし)という国家的な代行機関も設けられていた。

 王族や、貴族は壮大な仏教儀礼を催した。それは、八関斎会(はっかんさいえ)と呼ばれた。仏教の世界では在家が授けられる八戒という初歩的な戒律がある。これを授けるのが八関会、斎会である。これは外国の要人も招待される大行事であった(同上、一五七〜六〇ページ)。似たような祭りで、少し規模を小さくした国内的行事である燃燈会(ねんとうえ)というものも毎年開催されていた(同上、一六三ページ)。

 こうした高麗仏教が次の李朝によって圧迫されるようになったのである。
 一三九二年、朝鮮では、李成桂(I Seonggye)が、高麗朝(九一八年建国)を倒して政権を取り、自らを太祖と名乗った。太祖は、二年間は国号を変えず、高麗のままとしていたが、その後、国号を朝鮮(Chosun、一三九四〜一八九七年)に改めた。首都も高麗時代の開城(Kaeson)から漢陽(Hanyang、現在のソウル)に移した。そして、「崇儒排仏」、「事大交隣」、「農本民生」の三つを国家の基本理念とした(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh022.html)。

 一つ目の「崇儒排仏」というのは、文字通り、儒教を崇拝し、仏教を排するという政策である。ただし、太祖・李成桂自身は仏教を信じていた。

 李成桂の二つ目の基本理念、「事大交隣」とは、大国に反抗してはならないという政策である。それは、「事大主義」と表現された。



 「事大」の語源は、『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。孟子は、小国が生き延びるには、天の理を知って、大国に仕えるのもやむを得ないと言った(1)。これが、「事大主義」と言われるものである。この考え方が、漢代以降の、冊封体制、周辺諸国にとっての朝貢体制の口実になっていた。

 李成桂は、大国の明との開戦を決定した小国の高麗政権を批判し、「以小事大」こそが、小国が生き延びる道だと唱えて、高麗政権を倒したのである。大国の中国の明王朝は、一三六八年に朱元璋(Zhu Yuanzhang)によって建国されたが、明は李成桂を援助していた。

 一六世紀に朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化された。冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠を尽くすのみ」と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策が目的にされてしまった。その姿勢は、李朝末期においてもなお継続され、清皇帝を天子として事大することを名目として、近代化に反対する勢力が存在した。この勢力が事大党と呼ばれた(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/97408/m0u/)。

 三つ目の朝鮮の基本理念である「農本民生」は、文字通り、農業を基本とする国民生活の安定を目指すというものであった(http://www.koreanculture.jp/korea_info04.php)。



 第三代国王の太宗(Taejong、在位:一四〇〇〜一八年)によって、仏教迫害が開始された。寺領は縮小させられ、僧侶の数も減らされた。剥奪した寺領は国有化された。度牒の制度は厳しくされ、王師、国師も廃止された(鎌田[一九八七]、二〇三ページ)。



 第四代国王の世宗(Sejong、在位:一四一八〜五〇年)が儒教を正式に国教に指定した。この王は、ハングルを造った『訓民正音』という勅撰書を出したことで著名な王である。毎年春秋の仲月にに僧侶に『般若経』を読ませて街を巡り、災厄を祓うという「経行」という、高麗のしきたりを、彼は廃止した。多くの教団を整理し、禅宗と教宗に統合させた。僧侶が城中に入ることを禁じた。ただし、晩年の彼は、仏教に帰依するようになった(同上、二〇四〜〇五ページ)。

 第九代国王の成宗(Seongjong、在位:一四六九〜九四年)は、尼寺二三寺を破壊し、度牒のない者の還俗を強制した。

 第一〇代国王の燕山君(Yeonsan-gun、在位:一四九四〜一五〇六年)は、僧科を全廃した。僧侶のほとんどを還俗させ、都城内の寺社のすべてを廃止した。

 第一一代国王の中宗(Jungjong、在位、一五〇六〜四四年)は、燕山君よりさらに徹底して仏教を弾圧し、僧侶を土木工事に使役した。京城の寺院のすべてを廃止した(同上、二〇七〜〇八ページ)。

野崎日記(421) 韓国併合100年(60) 日本の仏教(3)

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 三 日本仏教の介入と朝鮮の傀儡政権

 上記のような李朝による仏教弾圧を阻止するという名目で、日本の仏教は、明治政府の半島進出に強力することになった。



 明治時代に、朝鮮布教を最初に開始したのは、浄土真宗大谷派だとされている。同派は、一八七六年の「日朝修好条規」締結の翌年から布教活動を始めた。中心人物は奥村円心(えんしん)であった。これは、東本願寺(真宗大谷派)の法主・厳如(げんにょ)の命による。東本願寺は、当時の内務卿・大久保利通(としみち)と外務卿・寺島宗則(てらしま・むねのり)から布教活動の依頼を受けていた。東本願寺釜山(Busan)別院が一八七八年に建立された。明治政府の中国、朝鮮への発展に合わせて東本願寺もまたこの地への布教を開始するとの宣言が出された。要約する。




 <明治政府が維新の大業を完成し漸(ようや)く支那、朝鮮等の諸外国に向かって発展しようとしている。本願寺も亦(また)北海道の開拓をはじめ支那、朝鮮の開教を計画している」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一八ページ)。

 円心は、一八九八年に本山に以下の内容の報告書を送っている。要約する。



 <国と宗教の教えとの関係は、皮と毛のようなものである。日韓もまた唇と歯のような関係にある。両者が相補って完全な姿になるのである。現在の韓国の状況は悲惨なものである。日本の忠君愛国の思想を韓国に誘導すべきである。かつては、日本は韓国から文化風物を教えてもらった。それによって、日本は繁栄した。いまや、日本が韓国を誘導開発するときである>(川瀬[二〇〇九]、二六ページより転載)。

 東本願寺もまた、キリスト教のように、文明の使徒になろうとしていた。もとより、キリスト教への対抗を意識したものであった。

 円心は釜山別院に朝鮮語学校と「釜山教社」を設置した(一八七七年)。釜山教社は、貧民救済を目的とした社会事業で、日本人による朝鮮での社会奉仕団としては最初のものであった(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一六一ページ)。

 真宗大谷派に続いて、一八八一年に日蓮宗、一八九五年に浄土真宗本願寺派(西本願寺派)、一八九八年には浄土宗、一九〇七年には曹洞宗等々が、朝鮮半島に進出した。

 そして、李朝によって弾圧されていたこともあって、朝鮮の仏教徒は、日本の仏教団の半島への進出を歓迎していた(川瀬[二〇〇九]、二八ページ)。



 既述のように、朝鮮仏教の僧尼たちは首都内に立ち入ることが禁止されていた。この「都城出入禁止」の打破が、日本の仏教団の重要な戦略であった。これを成功させたのが、日蓮宗僧侶の佐野前励(ぜんれい)であった。一八九五年、彼は、当時の朝鮮総理大臣・金弘集(Kim Hong-jip)に禁の廃止を願い出、それが認められたのである。



 金弘集は、一八八〇年に来日し、一八七六年に締結されていた不平等条約の「日朝修好条規」改正交渉をした。日本の拒絶により目的は達成されなかったが、その後、国王・高宗(Gojong)を説得して、開化政策を推進させた。しかし、開化政策は儒者や保守層の反発を招いた。一八八二年の「壬午軍乱(事変)」(Imo gullan)での「済物浦(Chemurupo)条約」を日本と結ぶ交渉にも当たった。一八八四年の「甲申政変」(Gapsin jeongbyeon)でも時局収拾に努め、一八八五年、日本と「漢城(Hanson)条約」を締結交渉の任を担った。


 一八九四年(干支で甲午)の「甲午(Gabo)農民戦争」(東学党の乱とも呼ばれる)にも金弘集は積極的に関与した。改革は、中国の年号踏襲を廃止、科挙制度の廃止、行政府の整理、銀本位性の導入、軍制度改革等々、急進的なものであったが、これが国内を紛糾させた。



 乱に手を焼いた閔氏(Minbi、高宗の妃)が牛耳る朝鮮政府が清国へ援軍を依頼すると、日本軍も出動した。日本軍は、日清戦争の直前に閔氏政権を転覆させて親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させ、興宣大院君(Heungseon Daewongun)を執政に据えた。



 一八九五年四月一七日、「日清講和条約」(下関条約)の調印。同年四月二三日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。同年七月六日、閔氏一族がロシア公使の援助を得てクーデターを起こした。彼らは、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。



 同年一〇月七日〜八日早朝、これに対して、日本公使・三浦梧楼(ごろう)はもう一度大院君を政権に就けようと図った。八日早朝、暴徒が宮廷を襲撃し、王妃である閔妃の寝室に乱入し、侍女も含めた三人の女性を斬殺した。死体を王宮外の前庭に運び出し、積み上げた薪の上で石油をかけて焼き捨てた。

 朝鮮人守備隊同士の衝突に見せかけようとした計画にもかかわらず、米国人医師の目撃証言によって、日本人の犯行であることが明確になった。

 これに対して、日本政府は、この事件を三浦公使をはじめとする出先官憲の独走であるとの立場を取り、犯行に関わった者たちを日本に召還し、日本で裁判にかけた。しかし、最終的には、証拠不十分として全員無罪となった。

 日本政府によって樹立されていた金弘集政府は、日本の圧力に屈して、三人の朝鮮人を真犯人として処刑した。しかし、この措置は、朝鮮人の怒りを買い、各地で武装蜂起が生じた。

 翌一八九六年二月、ロシア軍水兵の応援を受けた反日派(保守派)のクーデターが起こり、金弘集や魚允中(O Yun-jung)らの政府要人が処刑された。この時、高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年余りの間そこで政務を執った。



 一八九七年、高宗王は王宮に戻り、朝鮮が清国に臣従していた形を改め、独立国であることを示すため、同年八月、それまで使っていた清国の年号を廃止して朝鮮の元号を定め、「光武」とした。同年一〇月一二日、それまでの「王」の称号を「皇帝」に改め、高宗王が高宗皇帝に即位した。同年一〇月一六日、それまでの「朝鮮」という国号を「大韓帝国」(一八九七〜一九一〇年)に改めた(http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_note/DokuKyok.htm)。

野崎日記(422) 韓国併合100年(61) 日本の仏教(4)

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 四 朝鮮総督府による朝鮮仏教寺院の統制

 日露戦争後、日本は韓国を保護国化して、一九〇五年一二月二一日、韓国統監府を設置した。そして、一九〇六年一一月、統監府令第四五号「宗教の宣布に関する規制」を発布した。仏教を韓国で布教しようとする日本人は、総監府の許可を得なければならないということが建前であったが(川瀬[二〇〇九]、五二ページ、注六一)、実際の運用面では、韓国の寺院を管理したいと願う日本の仏教寺院は、統監府に書類申請すれば、韓国寺院を日本寺院の管理下に置くことが認められていた。これによって、真宗大谷派は海印寺や梵魚寺など半島随一の由緒ある名刹(2)を自己の末寺にすることができた(川瀬[二〇〇九]、三二ページ)。ただし、両寺を末寺にしたことの効果については、大谷派自体が懐疑的な反省を行っている。それでも、その行為は一定の効果を持っていたことは否定できないとの自己弁護をしている。

 「本願寺の朝鮮開教(3)が朝鮮の寺院及び僧侶に対して何程の刺激を与へたか、この質問に対して編者は遺憾ながら全くナッシングであるとも答え得ないのである。何となれば、嘗(かつ)て開教師が海印寺に出張して鮮僧を教養し、或は梵魚寺に於いて奥村師が鮮僧を誘掖(ゆうえき)(4)した事実があるから全く何等の刺激を与へなかったとは云へないのである」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九一ページ)。

 この文章には、傲慢さが漂っている。朝鮮の仏教とたちは、歯を食いしばって李朝権力の弾圧に抗してきた。李朝がなくなり、大韓帝国ができても、今度は、日本という新たな権力の膝下に韓国の仏教は置かれてしまった。弾圧されてきた朝鮮半島の仏教を守ってきたという自負を持っていたであろう朝鮮の名刹に対して、日本の開教師が海印寺の僧たちを教えた、奥村円心師が梵魚寺の僧たちを導いたと言ってのけたのである。日本の仏教教団は、朝鮮の寺で自分の考え方を述べて朝鮮の僧たちと意見を交換し、過去の弾圧の負の遺産を跳ね返そうとエールを交わせなかったのである。



 奥村円心の大きな業績を讃える書の編者たちの感覚だけなら、教団の少数の僧の勇み足であったとして無視することもできる。しかし、時の法主(ほっす)であった彰如(しょうにょ)(5)は、法主就任に当たって次のような訓辞(御垂示(ごすいじ))を出している。現代語風に要約する。

 <韓国併合に向かうという天皇のお言葉(大詔)は、太陽と星のような平和と秩序を東洋にもたらすものである。日本は、慈愛をもって韓国民を永遠に安心(綏撫、すいぶ)させえることができる。これで東洋は平和の基礎は強固になる。とくに真宗を信じる人たちは、人々を等しく慈しむ(一視同仁、いっしどうじん)ことができ、仏の慈悲で海外の人たちを包みこむことができる。新しく日本に加わる人たちに恐れを抱かすことなく、彼らを啓発し、彼の地の産業を発展させることが真宗の任務である。天皇の御言葉(聖旨、せいし)を遵守することが、国家と仏祖に報いる仏教徒の義務である>(一九〇八年九月二五日の本山『宗報』第一〇八号。川瀬[二〇〇九]、三四、五二ページより転載)。

 そこでは、韓国人を「新附ノ国民」と表現し、彼らを教え導く(扶掖、ふえき)ことが真宗の目標に置かれているのである。
 総監府を継承した朝鮮総督府も、李朝によって弾圧されていた韓国・朝鮮仏教を救済するという名目の下で、半島の寺院に対する統制を強化して行った。

 一九一一年に施行した「寺刹(じさつ)令」(6)を、朝鮮総督府は次のように自画自賛した。要約する。
 <朝鮮の仏教寺院は、新羅・高句麗・百済の三国対立時代に創建され、高麗朝時代に隆盛を迎えたが、李朝時代の中期になると、儒教を奨励し・仏教を抑制する(揚儒抑仏)という風潮が起こり、仏教はほとんど顧みられなくなった。こうした状況を改善すべく寺刹の布教を支えることにする>と寺刹令の趣旨を述べ、その内容を以下の三点で説明している。

 <(一)寺刹を保存する施策を講じる。(二)寺刹の管理者である住持の職務を明確にする。(三)寺刹内部の規律を正しくし、僧尼の姿勢を厳正にさせる。(四)寺の財産が散逸しないようにする施策を講じる>(朝鮮総督府[一九一一]、五三ページ)。

 この文面だけを見れば、朝鮮総督府は衰退していた朝鮮の仏教を再興させることを目指しているかのようである。
 朝鮮総督府は、寺刹令施行の効果について豪語した。

 <この法令が施行されて以来、朝鮮の一般民衆の仏教に対する態度は一変した。僧尼たちは、一〇〇年の間、軽蔑されてきたが、一視同仁の政策によって、屈辱的な境遇から脱却し、その政策を喜んでいる。他の宗教のように布教を行う自覚が生まれている>(朝鮮総督府編[一九一三]、五三〜五四ページ、川瀬[二〇〇九]、三五ページより転載)。


 寺刹令は、朝鮮仏教への朝鮮総督の介入を制度化したものである。一九一七年、親日派の李完用(I Wan-yong)は、朝鮮仏教と日本仏教の対話の会を設立し、朝鮮総督府の宗教政策にも協力した(韓[二〇〇四]、三六ページ)(7)ことに見られるように、日本の仏教の朝鮮への進出は、朝鮮における日本支持派の政治勢力と深く関わるものであった。

 朝鮮で施行されたこの寺刹令は、じつは、以前に日本政府が日本で制定を試みながらも、日本の仏教界の猛烈な反発を受けて頓挫した「第一次宗教法案」の内容を踏襲して作成されたものである。

 この「第一次宗教法案」は、一八九九年一二月に山県有朋(やまがた・ありとも)内閣によって第一四回帝国議会貴族院に提出されたが、出席議員二二一名のうち、反対一二一名、賛成一〇〇名で否決されたものである(戸村[一九七六]、四四〜四五ページ)。

 当時の仏教界が、この法案に反対した主たる理由は、「これは神仏とキリスト教とを対等に扱うもの」という反キリスト教思想にあった。これが、明治政府による最初の宗教法案であったが(中濃[一九九七]、一三六ページ)、その後、一九二七年まで宗教法案は日本では提出されなかった。宗教団体を権力の統制下に置こうとする日本政府の試みは朝鮮で実験されたのである。その経験を踏まえて、一九二七年に「第二次宗教法案」が同じく帝国議会に提出された。

野崎日記(423) 韓国併合100年(62) 日本の仏教(5)

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 この法案が提出される前年の一九二六(大正一五)年、神社を別扱いとしつつ、宗教を権力支配下に置く研究をする「宗教制度調査会」が日本に誕生している。この会は文部官僚と宗教側代表とによって構成され、文部大臣の任命によるもので、完全な御用団体であった。この会の提言を受けて、一九二七年一月、若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)内閣が、第五二回帝国議会(貴族院)に新「宗教法案」を岡田良平(りょうへい)・文部大臣案として提出した。これが、「第二次宗教法案」と呼ばれたものである。この法案は、非常に厳しいものであった。

例えば、「宗教の教義の宣布・儀式行事の執行が安寧秩序を妨げ、風俗を破り、臣民たる義務にそむくおそれがあると認めた場合には、監督官庁はこれを制限し、または禁止することができ、この処分に従わないときは、文部大臣は宗教団体の設立許可または宗教指定の取り消しをすることができる」とあった(第三条)。

 宗教界は猛反対した。反対する主要な点は六つあった。?文部大臣が宗教そのものを指定すること、?宗教教師の資格を法定したこと、?宗教結社の設置を地方長官の許可事項としたこと、?管長・教団管理者の就職を文部大臣の許可事項としたこと、?寺院・教会の離脱を文部大臣の許可事項としたこと、?「必要ナル処分ヲ為スコトヲ得」などと所轄庁の監督が厳しく罰則が重いことである。

 「第一次宗教法案」の際は仏教側の反対が強かったが、この「第二次宗教法案」では、キリスト教側からの批判が強く、この案も貴族院で審議未了となった。この頃を境として「神社は宗教にあらず」論が、一段と強められるようになったのである。

 日本政府は、「治安維持法」を一九二五年に施行し、反権力運動を厳しく取り締まることになった。それとともに、反権力に傾く可能性のある宗教の統制を執拗に志向することになったのである。

 二度も帝国議会で廃案となった「宗教法案」に代わって、一九二九年、田中義一(ぎいち)内閣の勝田主計(しょうだ・かずえ)文部大臣は、「宗教制度調査会」の協力を得て、「宗教法案」を「宗教団体法案」と改めて、第五六回帝国議会(貴族院)に提出した。
 この法案は、法を適用すべき対象を「宗教」そのものでなく、「宗教団体」にした。信教の自由という建前をかざして、実質的に反権力運動を行う宗教団体の取り締まりを狙ったのである。法案提出の理由には、「国民精神の作興」に貢献する宗教団体の育成を目指すことが挙げられた。

 「大体(この法案)ニ於キマシテ、取締ニ関係イタス事柄ハ成ルベク之ヲ制限イタシマシテ、小サクイタシ、最小限度デ以テ取締ハイタス。寧ロ此宗教団体ノ自治的発達、国家ノ保護、斯様ナルコトニ重キヲ置キマシテ、教化団体トシテ国民精神ノ作興ノ上ニ貢献セシムベキ趣旨ニ相成ッテ居ルノデアリマス」(  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 ここに「国民精神ノ作興」とあるのは、関東大震災直後に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」に出てくる天皇の言葉(詔書)である。しかし、これも、宗教界の抵抗が強く、廃案になった。

 国内には、以後大きな反権力運動が盛り上がった。一九三〇年には、大本(おおもと)教団が、不敬罪、国体変革など「治安維持法」違反容疑により徹底的な弾圧を受けた。これは、大正時代に続く「第二次大本事件」である。一九三六年には二・二六事件。一九三七年には「国民精神総動員運動」が始められた。

 そして、ついに、一九三九年二月、平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)内閣が、貴族院特別委員会に「第二次宗教団体法案」を提出した。その提案理由を平沼総理は次のように述べている。

 「いずれの宗教に致しましても我国体観念に融合しなければならぬということは、是は申すまでもないことでございます。我が皇道精神に反することはできないのみならず、宗教によって我が国体観念、我が皇道精神を涵養すると云うことが日本に行はる宗教として最も大事なことで……これがためには一面においては宗教の向上発展を図るということが必要であります。就てはこれに国家と致しまして保護を加へることは是非やらねばならぬことである。是と同時に宗教の横道に走るといふことは是は防止しなければならぬが、これがためには、これに対して監督を加えることが必要であろうと思います」(「宗教団体法案貴族院特別委員会議事速記録」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_135.htm)。

 法案の内容も、宗教団体やその教師が行う宗教行為が、安寧秩序を妨げ、日本臣民たることの義務に背く場合は、その宗教行為を制限し、または禁止することができ(「同法第一六条」)、この権限は、寺院、教会、教師に対しては文部大臣から地方長官に委ねられていた(「同法一九条規則五七条」)。文部大臣、地方長官は教派、宗派の管長、教団統理者、教会主管者、寺院住職等を解任することもできた(「同法一七条一項および一九条」)のである。神道一三派はそのままとしながら、仏教の五六派は二八派に、キリスト教の二〇余派は二教団にと強制的に統合させられ、敗戦を迎えたのである(中濃[一九九七]、一三七〜四〇ページに依拠)。

 この、日本の「第二次宗教団体法案」は、一九一一年六月に朝鮮で発布された「寺刹令」と、同年七月に作成された「寺刹令施行規則」(本令、細則ともに施行は、一九一一年九月一日)と非常に極似している。抵抗の大きさから本国の日本では成立しなかった宗教統制が、植民地朝鮮で強引に施行し、ついに、それを戦争の敗色濃厚であった日本に再導入したのである。

 「寺刹令施行規則」は全八条からなり、第一条では住持の選抜方法や交代手続き、第二条では三〇寺に定められた朝鮮の本山の住持の就任には朝鮮総督の許可が必要なことと末寺の住持については地方長官の認可を得ること、等々がが定められた。住持の履歴提出を朝鮮総督府は義務化し(第三条)、住持の任期を三年に限定し(第四条)、反社会的行為をした住持は免職させられることになった(第五条)(朝鮮総督府[一九一一]、二二〜二三ページ)。当時、朝鮮には一三〇〇余りの寺院が残っていたが、そのすべてが朝鮮総督府を頂点としたピラミッド構造に編成替えさせられたのである(韓[一九八八]、七八〜八一ページ)。

野崎日記(424) 韓国併合100年(63) 日本の仏教(6)

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 五 朝鮮の宗教統制

 一九一五年一〇月、「布教規則」(朝鮮総督府[一九一五]、一五四〜五五ページ)が施行された(8)。これは、仏教だけではなく、キリスト教も含む朝鮮における全宗教を対象とするものであった(川瀬[二〇〇九]、三七ページ)。

 この「規則」の重要な点は、各教団の布教管理者の解任権を朝鮮総督が握ったことである。「朝鮮総ハ布教の方法、布教管理者の権限及布教者監督ノ方法又ハ不適当ト認ムルトキハ其ノ変更ヲ命スルコトアルヘシ」(第四条)。

 一九一九年の三・一独立運動に恐怖した朝鮮総督府は、「安寧秩序を妨げる恐れがある」宗教団体への監視を強めるという条項(第一二、一四条)も追加された(朝鮮総督府[一九二〇]、八四〜八六ページ)。

 川瀬([二〇〇九]、三八〜三九ページ)での紹介によれば、一九一七年に朝鮮僧侶が東京に来訪したとき、時の前法主・現如(げんにょ)は次のような歌を詠んだという。



 「一筋に みのりの為めに つくさなん 照る日の本に 心あわせて」

 日の昇る日本のために、日本と朝鮮の仏教徒は力を合わそうというのである。
 同じ年、朝鮮と満州を訪問していた当時の現法主・彰如は次のように語ったという。

 「彼等を完全に教育し、彼等に大和民族の血を入れよ、而して後に初めて教えを説くべし」(彰如[一九一七])。

 朝鮮総督府による一九二〇年の報告によれば、当時朝鮮で活発に布教活動をしていた日本の仏教会は以下の宗派であった。真宗、浄土宗、曹洞宗、真言宗、日蓮宗、法華宗、臨済宗、黄檗宗。布教所は二三六、布教者数は三三七、寺院数六七、信徒数一四万八〇〇〇人余り、うち、朝鮮人一万一〇〇〇人であった(朝鮮総督府編[一九二二]、一四七ページ)。

 日本の仏教界は思うようには朝鮮人信徒を集めることはできなかったが、それよりも、韓国仏教会に親日派僧侶を多数作ろうとしていたのである。

 朝鮮総督について記せば、初代の寺内正毅(てらうち・まさたけ、在任:一九一〇〜一六年)、第二代の長谷川好道(よしみち、在位:一九一六〜一九年)は武断政治を強行していた。一九一九年の三・一独立運動の攻撃を受け、軍を動員したことの責任を取って辞任した長谷川の後任に就いた第三代の斎藤実(まこと、在位:一九一九〜二七年)は、武断政治を引っ込めて、「文化政治」を掲げ、親日的な僧侶の育成に努めた(姜[一九七九]に詳しい)。

 一九二〇年に、朝鮮総督府から「朝鮮民族運動に対する対策」と題された秘密文書が作成された(国立国会図書館憲政資料室蔵、以下の中身は、平山[一九九二]、川瀬[二〇〇九]より転載)。

 これは、激しくなる一方の朝鮮人による反日運動を治める方策が検討された文書であるが、半日分子を押さえ込む親日分子の育成に朝鮮人仏教徒を積極的に育成しようと提言したものである。要約する。

 <朝鮮の仏教は、李朝によって五〇〇年もの間、圧迫を受け、社会的影響力を大きく失ってきた。しかし、それでも、民間の仏教信仰はまだ根強い。こうした国民の信仰を後押しすることが大事な政策になる>。
 <?そのためにも、寺刹令を改正して、京城に朝鮮仏教を統合する「総本山」を置き、すでにある地方の三〇本山を統括させることにする>。
 <?「総本山」には、親日的な管長を置く>。
 <?「総本山」を支えて、仏教を振興させる仏教団体を育成する>。
 <?「総本山」を支える上記団体の本部は総本山に置き、その支部も三〇ある本山に置く。団体会長と支部会長は、親日的な有徳の人でなければならない>。
 <?支援団体の役目は、一般人民に仏教を広め、仏教によって罪人を悔い改めさせ、慈善事業を行うことである>。
 <総本山、本山、支援団体の本部とその支部には相談役という顧問を置く。この顧問は人格の優れた日本人を置く>(川瀬[[二〇〇九]、三九~四〇ページより転載)。

 朝鮮仏教を支配するために、総督府のお膝元に「総本山」を置き、総本山、本山、仏教支援団体の指導は、すべて親日派でなければならないし、そうした組織のすべてに日本人を顧問として据える、等々を見れば、朝鮮総督府は露骨に朝鮮仏教を自己の権力の膝下に置くことを画策していたことは明白である。

 おわりに


 明治維新直後の権力を後ろ盾とした「廃仏毀釈」による攻撃への記憶が生々しく、攻撃の再来への不安もあったのであろう。日本の仏教界は、海外布教に、日本と現地の政治権力との結びつきを希求していた。

 「江華島条約」締結後、釜山居留地を日本政府が手に入れた一八七七年、大谷派東本願寺は、直ちに奥村円心を現地に派遣して、翌一八七八年、本願寺釜山別院を創建した(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九ページ)。

 奥村円心は、はじめから朝鮮全国の寺院の「総轄」と朝鮮の僧侶の統制を意図していた。一八八〇年一月、奥村円心は、本願寺執事宛に「朝鮮弘教建言」を提出し、次のように述べた。要約する。

 <京城、仁川に本願寺の寺を速やかに建設して、八道(注:朝鮮全土のこと)の寺院を「統轄」(注:多くの機関を一つにまとめて支配すること)する姿勢を示せば、朝鮮政府もこれを無視することができず、呼応するであろう。いまや、本願寺の法の威力によって、八道の僧侶を「風靡」(注:なびき従わせること)する絶好の機会である。この機会を逃してはならない>(柏原編[一九七五]、四八一〜八二ページ)。 

 一八八一年五月一日の奥村の日誌には、彼が朝鮮の政治家や朝鮮仏教界と接触できたのは、キリスト教の拡大を阻止する役割を真宗が担ったからであるとの叙述がある(柏原編[一九七五]、四八五ページ)。

 奥村は、朝鮮の政治家たちとの人脈によって、政治的工作にも従事していた。例えば、開化運動の中心人物であった漢方医の劉大致(Yu De-chi)、劉に仏教思想を吹き込んだ朝鮮の僧侶・李東仁(I Don-in)が奥村を支えた。彼らは、甲申政変の時、金玉均(Gim Ok-gyun )と福沢諭吉を結びつけた人たちである(9)。

 日本仏教界の朝鮮における布教活動が政治権力と結びついていたことが、甲申政変によって、多くの人たちが知ることになり、朝鮮では、仏教そのものへの反発が生まれ、朝鮮仏教界は内部抗争を韓国の独立まで続けることになったのである。

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