はしがき
危機は、これまで秘密にされてきた真実を暴く。事態が深刻になる前から、多くの欠陥は見えていたはずである。
二〇一一年三月一一日の発生から日々深刻さの度合いを増している福島原発の事故にしろ、大震災・大津波にしろ、危機が発現するまでには、十分すぎるほどの警告があった。しかし、ほとんどの人々は、原発であれ、防潮堤であれ、構築物の安全性を強調する理論に信頼を置いていた。その理論が、素人には分からない神秘的なものであればあるほど、人々は、その理論が示す処方を正しいものと思い込んできた。いや、思い込まされてきた。
しかし、実際に大事故が起こってみると、深遠な理論がまったく役に立たないこと、しかも、安全性を監視してくれていたはずの国家機構が、業界と癒着していて、果たすべき役割をほとんど実行していなかったことを、人々は否応なく思い知らされた。構築物の一部だけが損傷されているにすぎないとの業界や監視機関の言い分を信用している間に、システムそのものが破壊してしまったことに人々は震え上がった。そして、危機が生じる度に経験してきた忌まわしい事態、つまり、政府内部での分裂という事態に人々の心が萎えた。社会的なパニックは、この過程から生じる。過去のあらゆる危機が教えてくれるように、事故を収拾する対策が遅れれば遅れるほど、危機は深刻化し、長期化する。
安全神話は、過去の通常の、ありふれたリスクを理論の中に取り込んだだけのものであり、滅多に起こらないが、起こってしまえばシステムそのものを破壊してしまう劇的なリスクを、例外的なものとして排除したことから作り出されたものでしかなかった。
一九八〇年代に入って、政府は公的な介入は正しいことではないとして、できるかぎり業界への介入を控えてきた。介入のなさが業者をしゃにむに儲け口に殺到させた。そして、介入を担うはずの役人が業者を最大の後ろ盾にする ]ようになった。また、理論構築の責任を担うべき学者までがこの構図にどっぷりとはめ込まれていた。
一九九三〜九九年に「国際原子力機関」(IAEA)の事務次長を務めたスイスの原子力工学専門家のブルーノ・ペロード(Bruno Pellaud)が、産經新聞のインタビューで、「福島原発事故は、東電が招いた人災である」と切り捨てた(『産經新聞』二〇一一年六月一二日付三面)。福島第一原発を氏は弾劾した。
「東電は、少なくとも二〇年前に電源や水源の多様化、原子炉格納容器と建屋(たてや)の強化、水素爆発を防ぐための水素再結合器の設置、などを助言されていたのに、耳を貸さなかった」、「事故後の対応より事故前に東電が対策を怠ってきたことが深刻だ」。
福島第一原発の原子炉は、GE製の沸騰型原子炉マーク一型であったが、一九七〇年代から、この型の原子炉は、水素ガス爆発の危険性が高いとの見解が出されていたと氏は指摘した。スイスもこの型の原子炉を採用していたが、当時、スイスで原発コンサルタントをしていた同氏の提言もあって、格納容器を二重にするなど強度不足を補ったという。氏は、一九九二年に、東電に対して上記のことと、排気口に放射性物質を吸収するフィルターの設置を進言した。
しかし、東電は、「GEが何も言ってこないので、マーク一型を改良する必要はない」との姿勢であった。東電の、この頑な姿勢は、ペロード氏がIAEAの事務次長になってからも変わらなかった。
二〇〇七年には、IAEAの会合で、福島原発の地震・津波対策が十分ではないと指摘され、その席上で、東電は「自然災害対策を強化する」と約束した。
津波対策としては、溝を設けて送電線をそこに埋め込むという作業などが含まれるはずであった。しかし、東日本大震災で露呈したことは、東電がこのような初歩的な措置すら施していないという事実であった。既設の送電線がなかったので、東電は、震災後、慌てて臨時の送電線を引く工事をした。この工事に一週間以上も要したのである。その間、原子炉は致命的な損傷を被った。氏は、それは「理解できないことである」と断じた。
「チェルノブイリ原発事故はソ連型事故だったが、福島原発事故は世界に目を向けなかった東電の尊大さが招いた東電型事故だ」と氏は言い切ったのである。
危機が深刻になればなるほど、事故の情報は歪曲される。例えば、一九八六年四月のチェルノブイリ原発事故。事故の真の原因は原子炉そのものの構造的欠陥であったが、西側諸国は反原発運動の激化を恐れて、運転員の規則違反行動が事故の原因であるとしたソ連政府側の発表を黙って受け入れた。事故の真因は隠蔽され、歪曲されたのである。
それは、客観的事実の検証とともに、作業に携わった当事者たちの意識を分析することの重要性を示している。
岩手県宮古市姉吉(あねよし)の海抜六〇メートルの小高い丘に津波の石碑がある。そこには、「高き住居は児孫の和楽、想え惨禍の大津浪、此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれている。一八九六年の「明治三陸地震」と一九三三年の「昭和三陸地震」で、姉吉地区は激しい津波被害に遭った。「昭和三陸地震」では、海抜約四〇メートル近くまで押し寄せた大津波により、地区の生存者はわずか四人だけであった。その生存者たちが、津波到達地点より、さらに二〇メートル高い場所に石碑を建立した(http://miharablog.seesaa.net/article/194131123.html)。ちなみに、宮沢賢治も一九三三年の津波を経験している。「被害は津波によるもの最も多く海岸は実に悲惨です」と同年三月、宛先不明(詩人・大木実宛?)の葉書の下書きに記している(宮沢賢治全集』ちくま文庫、第九巻、五七三ページ)。この石碑の戒めはほとんどの日本人の脳裏からは消え去ってしまっていた。
さて、今回のテーマである「日本的精神」について、災害との関連で説明しておきたい。「危機」を理由に「民族の一体化」を声高に示した戦前の集団心理を、私は「日本的精神」と表現したい。
「危機」との関わりで「日本的精神」を褒めそやすことは、昔からナショナリストたちによって多用されてきたものである。今回の大災害についての渡辺利夫の次の寄稿文はその典型例にある。
「人間は安寧な自然の中で生成したのではない。私どもは過酷な自然の中に遅れて生まれ来たる者なのである。天変地異によって、万が一、民族の半分が消滅してしまったとしても、残りの半分は自然の冷酷な仕打ちを怨(うら)みながら、しかし、生き存(ながら)えて次の世代に日本という存在を継いでいかなければならない。苦境に陥ったときほど生きて在ることをより鮮やかに確認し、生命力を漲(みなぎ)らせる民族の連綿たるを証さねばならない。強靱なる民族とはそういうものなのだろう。日露戦争の戦端が開かれたときの明治大帝の、広く知られた御製にこうある。
しきしまのやまとこころのをゝしさはことある時ぞあらわれにける
個々の生命体は必ず滅する。しかし死せる者の肉体と精神は遺伝子を通じて次の世代に再生し、永遠なる生命が継承されていく。その個々の生命体がすなわち民族である」(渡部利夫「三月一一日を<国民鎮魂の日>に」、『産經新聞』二〇一一年六月一〇日付、第一三面)。
渡部は、<危機こそが民族結集の好機である>と理解している。<日本民族は、危機を幾度も乗り越えた経験のある、雄々しい遺伝子の集合体である。危機発生に際して、日本民族は結集しなければならない>。<危機は自然だけでなく、国際関係にもある。その中で、「民族」が生き延びるためにも強力な「やまと心」を日本は持たなくてはならない>。渡辺の主張はこのようにまとめることができるだろう。
渡辺のこの主張は、戦前の「日本的精神」と重なる。「日本的精神」なるものは、つねに新たな高揚の口実を探してきた。
その傾向は、第二次世界大戦の敗戦とともに消え去ったわけではない。中国脅威論、朝鮮共和国(北朝鮮)敵視論が、「民族」意識高揚を狙って声高に叫ばれる。脅威には、同盟国との連携が必要であるとされる。「日本的精神」高揚の手法は、戦前といささかかも変わってはいない。同盟国の相手が変化しただけである。
韓国併合一〇〇年の二〇一〇年とその翌年の二〇一一年、日本は朝鮮半島の文化や社会を破壊したのではなく積極的に現地に貢献していたという説が臆面もなく流布されるようになった。<鉄道を敷き、鉱工業を興し、学校を建て、朝鮮の近代化に貢献した。巨大な水豊ダム建設によって、大規模な発電、巨大コンビナートを発展させた。鉄鉱石鉱山、炭鉱なども開発した。言語を奪ったどころか、朝鮮語の教科は一九三八年までは必修、一九四一年までは任意科目にした。学校では、日本語の唱歌と並んでハングルによる日本の唱歌の翻訳と朝鮮語の歌も唱歌として採用した。ハングルを普及させたのは朝鮮総督府の貢献である> (藤岡信勝「正論」、『産經新聞』二〇一〇年八月一八日付、第一三面)>との議論がその典型である。さらに、大東亜戦争擁護論が、韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年から執拗に語られるようになった。自分たちは正しかった。米軍に敗れただけであると嘯く。そこには、日本人が東アジア大陸から締め出されてしまったことへの自省心のかけらも見られない。
何百万人の戦死者を前にして責任を取って自決した軍部指導者は、ただ一人であった。責任の所在がつねにあいまいにされ、自らとは異質な存在を尊敬の念でもって抱え込む姿勢がなく、自らのみを中心に置く「無責任な主我主義・集団和同主義」を、私は、「日本的精神」と表現したい。この「日本的精神」が東アジアの民衆から拒絶されてきたし、いまもそうなのである。