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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(404) 韓国併合100年(43) 韓国併合と米国(1)

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 1-1 韓国併合と米国

 はじめに

 一八七六年、駐露公使(Minister to Russia)であった榎本武揚(えのもと・たけあき)(1)は、当時の外務大臣・寺内宗則(てらうち・むねのり)(2)に書簡を送り、日本にとって、朝鮮の経済的貢献は小さいが、安全保障の視点からすれば非常に重要な政治的・戦略的位置にあると語った(田中[一九九七]、六一ページより引用)。

 経済的利益はないが、安全保障の見地からは、朝鮮は、戦略的重要な位置にあるというのが、当時の元老たちの共通認識であった。しかし、史実はそうではない。明治政府は朝鮮半島から経済的利益をむさぼり取ろうとしていた。

 それは、すでに、一八七六年、日本と李氏朝鮮との間で結ばれた「日朝修好条規」に現れていた。この条約は一八七五年の江華島事件後に結ばれたことから江華条約(Treaty of Ganghwa)とか、一八七六年が丙子の年に当たるので、丙子条約(Treaty of Byon-Ja)とも呼ばれている。

 修好条規は、漢文と日本語で書かれている。条規は全一二款からなり、付属文書一一款、貿易規則一一則、公文からなる。条規第一款は、「大日本国」と「大朝鮮国」が相互に自主独立の国であること。条規第四款で、すでに日本公館が置かれている釜山(Busan)は言うに及ばず、即時に、元山(Wonsan、一八八〇年開港)、仁川(Incheon、一八八三年開港)をも開港させる。条規第九款で貿易制限禁止。条規第一〇款で、日本人の治外法権が定められた。

 付属第七款で開港場における日本の貨幣使用が認められた。貿易規則第六則では、それまでは禁止されていた朝鮮から日本への米の輸出が認められ、公文では朝鮮の関税自主権を奪い、日朝間の貿易は無関税になることが宣言された(http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_01.html)。日本が欧米列強によって押し付けられた不平等条約ですら、無関税でなく、一定の関税がかけられていたし、また、外国の貨幣の乱用も抑制されていた。そうした日本が苦しんだ不平等をさらに拡大させた条規を日本は朝鮮に強制したのである。日本は、朝鮮を経済的に搾取する姿勢を初発から露骨に示していた。

 ちなみに、朝鮮半島の植民地化によって、日本に在住する朝鮮人の数は激増した。一九一一年には二五〇〇人しかいなかったが、一九二〇年には約三万人、一九三〇年には約三〇万人、終戦直後には約二五〇万人になった(和田・石坂編「二〇〇二」、一〇二ページ)。

 このように露骨に朝鮮を支配する日本に対して、当時の列強は強硬に反対しなかった。


 一 朝鮮の期待を裏切ったセオドア・ローズベルト米大統領の武断外交


 一八七六年の「日朝修好条規」によって、開国を強制された朝鮮は、一八八二年に米国とも「米朝修好通商条約」(Treaty of Amity and Commerce betweenn the United States of America and Corea)を結んだ。条文の中には、両国は独立を保持するために協力するという趣旨が記されていた。しかし、米国は日露戦争に当たって日本を強く支持し、朝鮮の独立が脅かされても朝鮮を守る何らの行動をも取らなかった。

 米国は、フィリピン領有を日本が認めることと引き替えに、日本による韓国支配を黙認した。「桂・タフト協定」(Taft-Katsura Memorandum)がそれである。これも、すでに本書、第一章で簡単に触れたが、いま少し詳しく説明したい。この協定は、当時の首相兼臨時外務大臣であった桂太郎(3)と、フィリピン訪問の途中来日した米国特使であり、後の第二七代米国大統領ウィリアム・タフト(William Taft)陸軍長官との間で一九〇五年七月二七日に交わされた協定である。

 この協定は、両国の首脳が署名した正式のものではなく、両国の合意メモ程度のレベルのものであった。しかも、公表されない秘密合意であった。協定の存在は、ほぼ二〇年後の一九二四年に、歴史家、タイラー・デネット(Tyler Dennett)によって発見され、同年の米雑誌、Current Historyで発表された(Dennet[1924])。これは、タフトが一九〇五年七月二九日に東京から当時の国務長官、エリフ・ルート(Eliha Root)に宛てた電文のコピーである。コピーは、いわゆるセオドア・ローズベルト文書に保管されていたものである(Department of State Archives[1905])。

 デネットが公表したメモ(4)には以下のことが記載されていた。

 ?日本は、米国の植民地になったフィリピンに対して野心のないことを表明する。

 ?極東の平和は、日、米、英の三国による事実上の同盟によって守られるべきである。

 ?米国は、日本の韓国における指導的地位を認める。

 ?桂は、一九〇五年に停戦した日露戦争の直接の原因が韓国政府であると指摘し、もし、韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、韓国政府は、ふたたび、同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は、韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。

 ?タフト特使は、韓国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意した。

 ?タフトは、ローズベルト大統領がこの点に同意するだろうという彼の確信を示した(事実、ローズベルトは、同年七月三一日、同意する電文をタフトに送ったDennet[1924], p. 19)。

 韓国では、この覚書が日本による朝鮮半島支配を拡大させた契機となり、米国による韓国への重大な裏切り行為であったという非難が出されている(http://dokdo-research.com/temp25.html)。

 ちなみに、セオドア・ローズベルトは、軍事力による武断外交の実践者であった。モロッコにおける拉致事件の解決がその一例である。



 一九〇四年五月、モロッコでアーマド・イブン・ムハンマド・ライスリ(Ahmad Ibn Muhanmad Raisuli)率いる武装勢力によって、タンジール(Tangier)で農園を経営していた元米国人の富豪、グレゴリー・ペルディカリス(Gregory Perdicaris)の息子、イオン・ペルディカリス(Ion Perdicaris)が誘拐された。ライスリはモロッコのスルタンに対し、「モロッコでの外国人の安全」という国の名誉と交換に、七万ドルの身代金と、ライスリたちのモロッコにおける安全通行権、そしてタンジールの一部地域の統治権を要求した。


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