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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(426) 韓国併合100年(65) 日本の仏教(8)  

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(7) 二〇一〇年七月二二日、親日反民族行為者財産調査委員会が公開した白書「清算されなかった歴史、親日財産」によると、一九二五年前後の李完用は「京城(現ソウル)最大の現金富豪」と呼ばれ、少なくとも三〇〇万ウォン(現在の貨幣価値に換算すると六〇〇億ウォン相当、日本円に換算すると約四三億円相当)以上を保有していたことが調査により分かったという(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0723&f=national_0723_077.shtml)。

 しかし、二〇一〇年一一月一五日の韓国のテレビKBSは、次のように報道した。

 二〇一〇年七月に活動を終えた親日反民族行為者財産調査委員会が、国家帰属措置にした親日反民族行為者の財産について、日本の最高裁判所に当たる大法院は、国家帰属措置を取り消す判決を確定した。対象となった財産は、朝鮮王朝時代の王族だった李海昇(I He-sung)が日本の植民地支配に協力して蓄財したもので、時価三〇〇億ウォン相当の土地である。大法院は、李海昇の子孫が該当土地の国家帰属措置の取り消しを求めた訴訟で、国家帰属措置を取り消す判決を確定した。

 二〇〇五年一二月二九日に制定された「親日反民族行為者の財産国家帰属に関する特別法」は、親日反民族行為者の財産を国家に帰属するよう定めた。日本の植民地支配に協力して蓄財した財産を国家に帰属させるというものである。

 この特別法に基づいて二〇〇六年に親日反民族行為者の財産調査委員会が発足し、調査を進めた結果、李完用、宋秉?(Song Byung-joon)など、親日反民族行為者一六八人の子孫が所有する土地一三〇〇万平方メートルを国家に帰属させる措置が取られた。

 王族の李海昇(I He-sun)は、韓国併合直後の一九一〇年一〇月に日本から公爵の爵位を受け、日本が敗北するまで積極的に日本の植民地支配に協力し、その過程で多くの財産を蓄財した。財産調査委員会は二〇〇七年一一月、李海昇を親日反民族行為者と規定し、李海昇が一九一〇年九月から一九三二年三月まで日本の植民地支配に協力して蓄財したソウルと京畿道一帯の土地、時価三〇〇億ウォン相当を国家に帰属させる措置を取った。

 李海昇の子孫はこの措置を不服とし、措置を取り消すよう求める訴訟を起こした。一審では国家に帰属させる措置は正当だという判決が出たが、二審では李海昇の子孫の要求を受け入れ、措置を取り消す判決が出た。そして、大法院はこのほど、措置を取り消す二審の判決を確定したのである。

 調査委員会の報告では、李海昇は、「韓国併合直後、併合に積極的に協力した功労が認められ、日本から公爵の爵位を受けた。一九一七年には李完用が設立した親日団体の仏教擁護会の顧問を務め、一九四一年には朝鮮臨戦報国団の設立に発起人として参加し、一九四二年には朝鮮貴族会の会長として朝鮮総督府に戦争資金を提供するなど、反民族行為を続けた」とされている。そして、李海昇は、「併合に協力したからこそ爵位を受けたという点に罪がある」というのが提訴理由であった。

 一審判決は、李海昇は一九一二年に「日本に協力した功績がある」という理由で朝鮮総督府から韓国併合記念勲章が授与されたが、これは単に王族だったという理由だけでなく、日本に協力したという理由で爵位を受けたことを裏付けるもので、財産の国家帰属は正当だとして原告の主張を支持した。

 これに対して、二審判決は、李海昇は当事、韓国併合と関係がある官職に就いていなかったし、当事、王族の多くが爵位を受けたことを考慮すると、爵位を受けたという理由だけで韓国併合の過程で日本に協力したと断定することはできない。よって財産の国家帰属措置を取り消すとの判決を出した。大法院でこれが確定したのである(http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_newissue_detail.htm?No=2226)。

(8) 「布教規則」の第一条には、「本令ニ於テ宗教と称スルハ神道、仏道及基督教ヲ謂フ」とある。川瀬貴也は、「興味深いことに、明治以降の全法令で「基督教」という用語を使ったのはこの条文が最初なのである」(http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/shisoushi01.htm)と指摘している。実際、日本国内ではキリスト教を取り締まる法律は一九一五年時点ではなかった。敗色濃厚となった一九三九年の「第二次宗教団体法」でやっとキリスト教を取り締まり対象に日本政府はできたのである。外国人宣教師は反権力者であるとの朝鮮総督府の嫌悪の強さが、この法律作成を急がせたのであろう(柏原[一九七五]、八四一ページ)。

(9) 李東仁は、金玉均の要請によって渡日し、東本願寺と浅草別院に長期滞在し、福沢諭吉やアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)たちとの交流を深めた。しかし、一八八一年三月頃に消息を絶った。暗殺されたらしい(柏原編[一九七五]、四六四ページ)。
 劉大致は、開化派の思想的指導者であった。資金集めにも活躍した。甲申政変の失敗後、逃走していたが彼も消息を絶った。暗殺されたらしいが、暗殺の正確な日時は不明である(柏原編[一九七五]、四七六ページ)。


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