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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(428) 韓国併合100年(67) 廃仏毀釈(1)

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日本仏教の朝鮮布教と廃仏毀釈

 はじめに

 日本の仏教界が、政治権力との結びつきを深めることによって、朝鮮布教を推進したことが、日本の仏教界の命取りになってしまったが、それには、明治維新直後に仏教界を襲った廃仏毀釈攻撃の記憶が仏教界にあったからであると見なすこともできる。日本の仏教界は、新しく台頭してきた神道との死に物狂いの闘争を経験した。神道からの攻撃を避けるためにも、日本の仏教は日本帝国による朝鮮支配に積極的に協力する姿勢を示さざるを得なかったのであろう。
 <宗教は、政治と相補って、国運の発揚と国民の活動を促すべきである>(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一八ページ、要約)。

 一八六九年に「北海道開拓」を明治政府に申し出た際、真宗大谷派は、北海道の開拓と並んで、中国、朝鮮への布教(開教)を宣言した。新政府の国威発揚・富国強兵に呼応しようとしていたのである。

 日本の仏教教団が明治政府に従属せざるを得なかった背景には、仏教に対する苛烈な廃仏毀釈の運動があった。

 一 廃仏毀釈

 江戸時代の日本の仏教は、高麗王朝時代と同じく、幕府の手厚い保護を受けている特権的存在であった。

 一六六五年、第四代将軍・徳川家綱が、各宗派の本山に対して「諸宗寺院法度」を発布した。これは、全国に数多くある寺院と僧侶を幕府が直接統治するために設けたものである。幕府は各宗派ごとに本山と本寺の地位を公認し、末寺を統制する権限を与えることによって、全国の寺院と僧侶を支配した。これらは「宗門改帳」(しゅうもんあらためちょう )とセットになって末端層の統治を意図したもので、切支丹禁止、日蓮宗不受不施派(1)の徹底弾圧にもつながった。ちなみに、長野の善光寺は、上野寛永寺の末寺に定められた(http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/huroku3.htm)。

 江戸幕府は、各宗派を、本山を頂点とした全国組織に編成替えしたのである。寺院は、また、寺請(てらうけ)制度(2)や寺檀(じだん)制度(注・総ての領民はいずれかの寺院の信徒になるという制度)によって、幕府の管理下に置かれた。

 江戸幕府の崩壊とともに、仏教は新たに興隆した神道の攻撃対象になった。目まぐるしく官制が変えられる中で、明治政府は神道との祭政一致の方向を目指した。

 一八六八年二月一〇日、太政官(だじょうかん)の下に七つの科が設けられ、その一つが神祇(じんぎ)科であった。太政官とは、明治維新政府の政治を司る最高官庁で、複数あった最高官吏の総称であった。一八八五年内閣制度が発足した時に廃止された(http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description04.html)。

 「神祇」のうち、「神」とは、天の神(天津神)を指し、「祇」とは地の神(国津神)を指す。そうした祭事を取り仕切る部局が神祇科であった(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/113640/m0u/)。神祇官は、古代の律令制で設置されていたが、明治維新に改めて設置を目指されたものである。神祇科には、宮家、公家、国学者などが重用され、神祇科の総督には、明治天皇の外祖父に当たる中山忠能(ただやす)
(3)が当たった。



 一八六八年二月三日、神祇科は総裁局の下に事務局として再編成されて、神祇事務局となった。同年六月一一日、古代の律令制に基づく官制に倣って政体書が公布されて、太政官制が施かれた。神祇官も正式に復興して太政官の下に置かれた。一八六九年六月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。この時に、従来、死者の穢れがあり神事から遠ざけるべきだとされた天皇陵の祭祀を、神事を司る中枢である神祇官が行うようになった。

 初期こそ、平田派の国学者(4)たちが勢力を振るっていたが、神祇官復興時には、より穏健な津和野派(5)が実権を持つようになっていた。

 明治維新の神仏分離や廃仏毀釈の意味は、記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に歴代天皇や南北朝期の功臣を加え、神話上のものであれ、歴史的実在であれ、皇統と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするというものであった。その神々の大系は水戸学や後期国学に由来する国体神学が作り出したものであった。神仏の峻別、神社からの廃仏、辻堂・石仏・村々の道祖神・祭礼なども廃棄の対象となった。神田明神の平将門なども逆臣として、祭神から追われた。

 明治維新の新しい政治スローガンとなった「尊王」・「勤皇」は、上記の後期水戸学や後期国学の影響を受けたものであり、維新政府は、そうした政治目的のために、「祭政一致」の「王政復古」という形で、国学を利用したのである。

 しかし、当然のことだが、新政府の復古主義は、古代の神聖国家時代ならいざ知らず、新生国家同士が激しく鎬を削っていた当時の世界政治の現実に適応できるはずもない時代錯誤のものであった。復古主義者が現実の政治で実権を持つことはありえなかったが、限られた世界における宗教政策の中で、彼らは燃焼していた。短い期間であったが、彼らは、廃仏毀釈の狂気的な運動に自らを駆り立てたのである。しかし、当然の結果として、廃仏毀釈運動は、明治三、四年には頓挫してしまった(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm)。それでも、短期間ではあったが、仏教界が被った被害は甚大であった。


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