主な廃仏運動を、列記しておこう。
一八三〇〜四〇年代。水戸藩は、徳川斉昭(なりあき)が中心となって、神社を唯一神道に改め、一村一社の制を採り、宗門改めの廃止、氏子帳の作成、僧侶の還俗、家臣の仏葬の廃止、梵鐘の徴収、等々が計画され、徐々に実施された。しかし、この措置は、幕府による斉昭の処分で頓挫した。
?天保一三〜四(一八四二)年。長州藩では、村田清風(せいふう)が主導して、寺院と村々の堂宇(どうう。注・お堂のこと)を淫祀(いんし。注・いかがわしいものを神として祀ること)として破却した。
?慶応三年六月(旧暦。新暦は一八六七年七月)。津和野藩が神仏混合を禁止した。
?慶応四年三月(旧暦。新暦は一八六八年三月)。王政復古の太政官布告。神仏分離に関する法令が出された。権現(ごんげん)号(6)、牛頭天王(ごずてんのう)号(7)の廃止、仏像を神体とすることの停止、本地仏・鰐口(わにぐち)(8)・梵鐘・仏器などの取除きが行われた。また、近江(おうみ)の日吉山王社(ひよしさんのうしゃ)(9)が破壊された。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)号(10)が停止された。旧暦の慶応四年九月八日が明治元年(新暦では、一八六八年一〇月二三日)(11)に改号されるまでにも、このような激しい廃仏毀釈の号令が下されていたのである(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm)。
新暦明治三(一八七〇)年二月三日(旧暦一月三日)、には、「大教宣布の詔」(だいきょうせんぷのみことのり)が発布された。これは、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とするという国家方針を示したものである(安丸・宮地編]一九八八]、四三一ページ)。
しかし、廃仏毀釈による混乱、まだ地方政府としての機能を保持できていた諸藩の抵抗、神祇省(12)内部の国学者間の路線対立、欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって、神道国教化の動きはスムーズには行かなかった。そのために、やむなく当時最大の宗教勢力であった仏教、とくに、浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。神祇官がなし得なかった国民教化を実現するために、教導職制度(13)が設けられ、新たな国民教化運動を組織する努力が重ねられた。その中心機関として大教院(14)が設立され、各府県単位の中教院、その下部には小教院が置かれた。これを「三条教則」という(15)。
しかし、神道勢力と浄土真宗との深刻な意見対立によって、浄土真宗が大教院を離脱し、明治一〇(一八七七)年、大教院は廃止され、新たに教部省が、旧暦の明治五年三月一四日(新暦では、一八七二年四月二一日)に設置された。この教部省は、神祇省を改組し、民部省(16)の仏教を統轄する部局である寺掛を併合する形で設置されたものである。このことは、神祇官内に設置された宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを意味する。
神道を押し立てていた新政府の混乱によって、神仏分離で劣勢に立たされていた仏教勢力、とくに、明治維新に際して倒幕側を支援した浄土真宗大谷派が、政治工作によって教部省を政府に樹立させたのである。
大教院は、仏門の増上寺に置かれた。とは言え、それは、必ずしも仏教側の勝利を意味するものではなかった。明治七(一八七四)年時点で、全国における教導職は七二〇〇名を超えていたが、神道関係者の方が多かったからである。神道関係者が四二〇二人、仏教関係者は三〇四三人であった(桜井[一九七一]、五一ページ)。
増上寺本堂が大教院として、神道の拝殿として用いられたことは、問題を複雑にした。神殿で行われる祭祀に教導職である僧侶の参列と拝礼が義務付けられた仏教勢力は激しく憤っていた。
神道側も憤っていた。仏堂の中に神社が設けられたことに反発した廃仏主義者の旧薩摩藩士によって、明治七(一八七四)年一月一日に放火されて増上寺本堂が全焼し、神体は助け出されて芝東照宮に一時奉遷された後、神道勢力が新たに設置した神道事務局の神殿に遷されたという経緯がある(http://www.bukkyo.net/zojoji/)。
明治八(一八七五)年には、仏教界で巨大な影響力を保持していた浄土真宗の東西本願寺派が大教院から離脱した(17)。これをきっかけとして、同年、大教院は廃止となり、神仏合同布教も停止された。明治一〇(一八七七)年には教部省も廃止、明治一五(一八八二)年には教導職の主要な担い手であった神官が教導職の兼務を禁止され、明治一七(一八八四)年、教導職も最終的に廃止された(安丸・宮地編[一九八八]、五四二ページ)。こうして、大教宣布の運動は成果なく終わってしまった。
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野崎日記(429) 韓国併合100年(68) 廃仏毀釈(2)
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