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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(430) 韓国併合100年(69) 廃仏毀釈(3)

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 二 大教院運動に抵抗した島地黙雷

 大教院運動を担う教導職に、上述のように、仏教界から結構多数者を参加させたが、その位は総じて低かった。教導職の職位には一四の階級があった(18)。しかし、僧侶の階級は、第六番目の「権小教正」(ごんしょうきょうせい)以下であった。

 まず、浄土真宗の僧侶たちが、大教院運動への反対運動を組織することになった。真宗の僧侶と門徒の農民が宗教一揆を起こした。これを「護法一揆」(ごほういっき)という。とくに、浄土真宗大谷派の僧侶・門徒による一揆が目立った。この一揆は、明治三(一八七〇)年から明治六(一八七三)年の間に集中している。大規模な一揆としては、明治四(一八七一)年に三河国の碧海(へきかい)郡と幡豆(はず)郡で発生した「三河大浜騒動」、明治五(一八七二)年に越後国の信濃川流域で発生した「新潟県分水(ぶんすい)一揆(19)、明治六年(一八七三)年に越前国大野郡・今立郡・坂井郡で発生した「越前護法大一揆)」などが挙げられる(吉田[一九八五」;三上[二〇〇〇]による)。

 西本願寺派の島地黙雷(しまじ・もくらい)は、一八七三年一〇月、「大教院分離建白書」を提出して、神道と仏教を合併させる意図で組織された大教院運動に反対する運動を開始した。島地は、大教院運動を「正教混淆」と批判し、信教の自由を訴えた。西本願寺は、島地の運動に強く反応し、大教院からの仏教の分離を申請した。そして、上述のように、一八七五年、信教の自由の獲得を理由に東西本願寺が大教院から離脱し、大教院は廃止された。

 教部省は、「信教の自由保証の口達」(教部省口達書」を発布し、一八七七年に自らを廃止した。それとともに、寺社を統轄する機関として内務省に寺社局が創設された(安丸・宮地編[一九八八]、五四二ページ)。 

 島地黙雷は、監獄布教など社会問題に取り組むなど、多方面に活動した僧侶である。一八三八年、周防国(山口県)の専照寺の四男に生まれた黙雷は、一八六四年に火葬禁止令を出した長州藩の廃仏政策に反対した。同じ頃、大洲鉄然(おおず・てつなん)らとともに真宗僧侶に兵士教育を施し、長州の倒幕運動を支援し、倒幕派との人脈を形成した。

 黙雷は、鉄然らと京都に上り、西本願寺に入る。江戸時代には、門主とその家臣によって運営されていた本山を改革すべく、門末(注・末寺)から優秀な人材を登用することを提案し、その提案は法主に採用された。

 西本願寺は、海外の宗教事情の視察のために、黙雷たちを欧米に派遣した。時期が、岩倉使節団の渡欧と重なったこともあり、パリなどで政府高官たちと黙雷は頻繁に接触していた。
 外遊中、大教院の設立によって、神主仏従という構図になっていた状況を伝え聞いた黙雷は、ただちに大教院の分離を訴える建白書を日本に送った(「三条教則批判建白書」、一八七二年)。帰国してからも、大教院やその管轄省庁の教部省への批判を繰り返した。大教院の廃止に黙雷は大きな影響を与えたのであるが、それには、彼の長州閥との人脈が功を奏したようである。
 その後も、監獄布教など社会問題に取り組むなど、仏教者そして啓蒙思想家として、多方面に活動し、明治三八(一九一一)年に亡くなった(http://www.ohaka-im.com/jinbutsu/jinbutsu-shimaji.htmlより)。島地黙雷の著作全集がある(二葉・福嶋編(一九七三〜七八)。

 以下で、「三条教則批判建白書」を要約的に紹介する。

 <海外留学中の僧の身で謹んで書きます。我が国の宗教は廃れています。欧米の宗教が隆盛を誇っているのとは対照的なことです。私の意見を朝廷が聞き届けて下さるなら私は死んでもよいと思っているほどです。
 政治と宗教とは別物です。けっして混淆すべきものではありません。政治は人が作るものであって、一国に通用するだけです。しかし、宗教は神が作るもので、万国に通用するものです。政治は利己的なものですが、宗教は利他的なものです。国は、自分を割いて敵国に譲ることはありませんが、宗教は、自己を捨てて他人を救うことに本分があります。

 政治は自国を富ますべく、他国と争います。それは、虎狼の心です。宗教がこの心を制するのです。

 往々にして、人はこの異なる二つのことを混淆してしまいます。西洋もかつてはそうでした。しかし、いまの西洋ではそうではありません。しかるに、省令はこの二つを混淆してしまっています。

 三条教則の第一には、「敬神愛国の旨を体すべきこと」とあります。敬神とは、宗教であり、愛国とは政治です。ここには、政治と宗教の混同があります。そもそも宗教は万国人のものです。仏陀は、「平等の大悲一切衆生を救済す」と教えてくれます。真の道とはほど遠いキリスト教ですら、「愛神愛人」と言っています。そして、キリスト教は万国に普及しています。宗教とは、一国に限定されるものではありません。

 三条教則にある「敬神」とは我が国に限る神なのでしょうか。それとも万国に通じるものなのでしょうか。

 我が国に限る神であるとすれば、万国に普及しているキリスト教に勝てるはずはありません。神は神です。宗教によって説き方が異なるだけです。

 ところが、我が国の神なるものの教えを過去、何人(なにびと)が立てたでしょうか。我が国の神の宗教を開いた人はありません。それなのに、省令は、ただ神を敬することを勧めるだけです。神を詳しく説くわけではありません。神に仕えるわけではありません。どうしてこのようなことに民衆は心を通わすことになるのでしょうか。

 天神地祇、水火草木に存する八百万(やおよろず)の神を敬させるのであれば、これは、欧州の児童も蔑んで笑うでしょう。エジプト、ギリシャ、ローマ、イギリス、フランス、ゲルマンなどの諸国における古代の人々は、衆多の神を尊奉しておりました。しかし、紀元前四〇〇年代、ギリシャの偉大な哲学者ソクラテスは衆多の神を廃して単神説を立てました。それは、当時の論と違っていたので、ソクラテスは刑死になりました。古今東西、これを惜しまない人はいません。多数の神を信じる人は欧州にはいません。多数の神を崇めることを、欧州では「ミトロジー」(神話学)と称し、図画彫刻の玩物として扱います。

 多神教が存在していたのは、自然の摂理を人間が解明できなかったからです。文化が開明している現代、不思議が解明されるようになった現代、多神教は終わったのです。いまやアフリカ、南アメリカ、東南諸洋島、アジアやシベリアの野蛮な地においては、なお多神教が尊奉されています。しかし、文明が発達している欧州では、多神教は甚だしく卑しめられています。臣の私は、本朝のためにこれを恥じます。あえて忌み嫌われることを恐れずにこのようなことを申しますのは、そのためであります。

 三条教則の第二章「天理人道を明らかにすべきこと」について申し上げます。宗教には徳、功、情の三つが必要です。ところが、省令の第二章は、効、つまり実績だけを強調するものです。宗教は民心を掴むことが肝要です。ところが、「天理人道を明らかにする」ということは、学問の深さに依存してしまいます。これでは、どうして救済を求める愚民の心の中に入ることができましょうか。学識や学風に違いがあるからこそ、各国の文化の違いが生まれます。それでは宗教になりません。宗教は差異を超えるものです。「天理人道」は宗教ではありません。

 三条教則の第三章「皇上を奉戴し朝旨を尊守せしむべきこと」についても私は案じます。尊王は国体であり、宗教ではありません。いわんや、現在のわが国は、専制の形であり、立憲の体裁をなしていません。

 三条規則にある「教部省出仕の僧侶、その本山を旧主と称し、その宗門を旧宗と称すべき云々」にも私には納得ができません。教部省に仕える僧侶は、本山の支配を受けるべきではないというのが、この省令の趣旨なのでしょうが、私には解せないことです。僧侶と本山との関係は、君臣の関係ではなく師弟の関係です。旧主という言葉には昔の君という響きがあります。昔の君主を棄てて、新たに朝廷の臣になれと命じられるのでしょうか。私は二君に仕えることができません。

 欧州の新聞には、日本政府が新しい宗教を作り、人民にこれを押し付けようとしているとの記事がありました。私は、そのような馬鹿なことがあるはずはないと思っていました。しかし、後に、このことが真実であることを知り、驚愕してしまいました。宗教とは、神が作るものです。法律によって作られるものではありません。

 宗教には、神と人間の間に立つ開祖が必要です。日本の神道を日本の唯一の宗教とするには、誰が開祖になるのでしょうか。

 宗教は、和らいだ心の地に安んじ、開化をもたらすものでなければなりません。国の富強と文物を盛んにし、法制を詳しくし、学術を励ますのは、政治家の任務です。これを宗教家に頼もうとするのは間違っています。宗教は、こうした任務を担う政治家の心を正すものです。
 欧州開化の源は、宗教によらずして学により、キリストに基づかずしてギリシャ、ローマに基づいていることは、三歳の児童でも知っています(要約は、http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/55の現代語訳に依存した)。


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