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野崎日記(431) 韓国併合100年(70) 廃仏毀釈(4)

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 三 長州閥と浄土真宗本願寺派

 大日本帝国憲法(以下、明治憲法と略する)は、明治二二(一八八九)年二月一一日に発布され、翌年の明治二三(一八九〇)年一一月二九日に施行された。

 その第二八章は、「信仰の自由規定」の名の下に、「信仰の自由」どころか、いわゆる邪宗門(20)を取り締まる規定としてあまりにも有名になった条項である。

 「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す」。

 そもそも、法律とはそういう性質を持つものであるが、ここでは、目的の「信教の自由」という文言よりもその前文の制限条項の方がより重い意味を帯びている。

 明治憲法は、公的には、一八八六年末から八八年にかけて審議されたものであるが、実際には、それ以前から専門家たちに草案作りが権力者によって依頼されていた。

 ここでは、明治六(一八七三)〜明治七(一八七四)年に作成された青木周蔵「大日本正規」に当時の高級官僚層の宗教観を見る。青木は、一八七三年には外務一等書記官としてドイツに官費留学していた。この「大日本正規」は、留学中のベルリンで一九七三年二〜三月に起草されたものとされている(稲田[一九六〇]、一九四ページ、草案の文章は、この文献に依拠した)(21)。青木の草案は、日本に憲法を作るという主張をもっとも明確に打ち出していた木戸考允(たかよし)の依頼によるものであるので、当時の支配層の宗教観を知る上で格好のものと考えられる。 

 現代語訳で要約しながら、青木草案を説明する。

 <日本の政治機構は、まだ幕末の公儀中心の政治体制から脱却していない>。<君も民も同じように治められるべきということが正しいことであり>、制限付きではあるが、<国民の権利、自由および平等が>確保されるべきことが憲法草案の冒頭に配置されている。その点では、正式の明治憲法よりも先進的なものであった(尾佐竹[一九八五]、八ページ)。

 しかし、青木の憲法草案には、仏教以外、とくにキリスト教を禁止するという条文がある。
 草案第一二章、<耶蘇教およびその他の宗旨を禁止するべきである>。
  草案第一三条、<日本国で主として信仰されるべき宗旨は釈迦教であるべきである>。

 憲法で、日本人が信仰してはならない宗教とか、信仰すべき宗教とかが明示されること自体が、今日の良識からすればとんでもないことであるが、しかし、ここでは、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていたまさにその時期に、高級官僚によって、声高に仏教を推進させることが唱えられたことを重視しておきたい。それは、明治中央政府の大教宣布運動を手直しする強い意志の表現であった(中島[一九七六]、五ページ)。

 中島三千男は、ここには、岩倉具視(ともみ)らを中心とする宮廷貴族層と、青木・木戸らの「エタティスト層」(etatists=国家至上主義者)との間にある宗教認識のズレが現れているとの認識を示している(中島[一九七六]、八ページ)(22)。



 駐日英国公使の通訳であったアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の一八七一年九月三日付日記には、英国代理公使アダムス(Francis Ottiwell Adams)(23)が本国に送った「条約改正」に関する書簡の中で、岩倉具視との談話の内容が記載されている。

 アダムスによれば、岩倉は、「キリスト教禁止を解けば、この国に革命をもたらすことになり、近世の方針をそれまで採ってきた政府は打倒されることになる」と語ったという。アダムスは岩倉に言った。「わたしが予想するもう一つの危険は、宗教の問題である。維新以来、天皇の政府は、仏教に対して一種の十字軍的な行動をとってきた。わたしの理解するところでは、その目的は仏教を廃棄し、それにかわって、神道を復活させようというものである。このような政策はヨーロッパ人の観点から見ると、じつに危険に満ちている。どこの国でも、農民や下層階級は、それぞれの宗教を概して形式的な意味で遵奉しているにすぎないが、その宗教の中で生まれ育っただけに、その祭礼や儀式に愛着をいだいており、それを上から強制的に変えようとする試みに、つよく反発するにちがいない」。

 岩倉は答えた。「天皇の政府は仏教を廃棄せよという布告を発したことはない。維新以来、政府が追及してきたのは、二つの宗教が混合している場合を取り上げ、神道を純化しようとしたことである」、「仏教は死滅したも同然であり、僧侶は無為に日を過ごし、戒律を犯してばかり居る、身体だけが丈夫な人間である」、「その仏教は多くの神社に忍び込み、これを汚染してきた。そこで神道を司る御門がこの汚染を取り除き、神社を純化することになった」、「全体として政府が仏教に好意を示さなかったことは確かであり、各地で多くの仏教寺院が破壊されたことも事実であるが、御門の命令は、かかる措置は僧侶と農民を含む、関係者の合意の下に実施されるべきであるというものであった」。



 ここには、天皇を神に祀り上げたいという岩倉具視の意志が示されている(24)。さらに、アダムスは、越中富山、信州松本などで廃仏毀釈をめぐる騒動があったことの理由を質した。このことについての岩倉の弁明。「その理由ははっきりしている。それらの地方で、変革が民衆の同意を待たずに行われたからである。この点で、藩庁は政府の厳しい叱責を受けた」。

 それでは薩摩はどうなのか。薩摩では仏教の寺院が大量に廃寺に追い込まれたというが、多くの民衆は、依然自分の家で、ひそかに仏教の儀式を遵奉しているというではないかと、アダムスは詰問した。

 岩倉の答え。「元来薩摩には寺院の数はそれほど多くなく、廃寺は何の反対も引き起こさず、且つ僧侶の同意の下におこなわれた。僧侶は喜んで還俗し、新しい生活に入った」。「ここの家で仏教の教義が実施されているという点であるが、そのうわさは正しい。しかし、それは仏教の特殊な宗派の信者、「門徒」の場合に限られることである。この宗派は、薩摩では約三百年も前から禁止されてきた」(萩原[二〇〇八]、二九一〜九三ページ)。

 このような、強烈な神道至上主義者であった岩倉具視に対抗していたのが、長州閥であった。彼らは、宮廷貴族を抑えるために、仏教勢力を利用しようとしたのであろう。長州閥の人脈があった島地黙雷が、効果的な大教院離脱運動を展開できたのも、こうした明治政府内の「宮廷貴族層」と長州閥の「国家至上主義者層」との角逐があったことの産物であると見なすこともできる。

 既述のように、明治五(一八七二)年一月、島地黙雷は、欧州歴訪の旅に出た。それは、当時の西本願寺の第二一代新法主・大谷光尊(こうそん、法名は明如(みょうにょ))の命令によって、法主の実弟・梅上沢融(うめがみ・たくゆう、法名は連枝(れんし))の補佐役として随行した旅であった。この時に、同じく欧州に派遣されたのが、赤松連城(れんじょう)であった。この赤松連城も周防徳山の西本願寺派・徳応寺(とくおうじ)の住職であった(25)。

 赤松連城も一八七三年に岩倉使節団に英国で会っている。彼は、明治七(一八七四)年に帰国し、寺法を定めた明治一二(一八七九)年の太政官布告の草案を書いた(http://episode.kingendaikeizu.net/40.htm)。彼も、島地黙雷とともに、岩倉使節団の一員として同じく欧州にいた木戸孝允と頻繁に会合していた。明治政府の宗教政策を転換させたがっていた木戸孝允が、島地たち西本願寺派僧侶の影響を強く受けていたであろうことは、十分に想像される(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)(26)。


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