(17) 浄土真宗の宗派は、親鸞の血脈を継ぐ東本願寺と西本願寺の二派と、門弟の流れを継ぐ八派がある。明治維新後の宗教再編時、現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺)のみ「浄土真宗」として、他は単に「真宗」として宗教登録されている。以下、一〇派を記す。括弧内は本山と所在地である。?浄土真宗本願寺派(本願寺(西本願寺)、京都市下京区)、?真宗大谷派(真宗本廟(東本願寺)、京都市下京区)、?真宗興正(こうしょう)派(興正寺、京都市下京区)、?真宗仏光寺(ぶっこうじ)派(仏光寺、京都市下京区)、?真宗誠照寺(じょうしょうじ)派(誠照寺、福井県鯖江市)、?真宗山元(やまもと)派(證誠(しょうじょう)寺、福井県鯖江市)、?真宗出雲路(いずもじ)派(毫摂(ごしょう)寺、福井県武生市)、?真宗三門徒(さんもんと)派(専照(せんしょう)寺、福井市)、?真宗高田(たかだ)派(専修(せんじゅ)寺、三重県津市)、?真宗木辺(きべ)派 (錦織(きんしょく)寺、滋賀県野洲(やす)市)(http://www.kyototsuu.jp/Temple/SyuuhaJyoudoSinSyuu.html)。
(18) 不発に終わった教導職の活動であったが、教導職階級名称は、教導職廃止後も、いくつかの教派神道や仏教宗派において教師の階級として残った。一四の階級は、以下の通り。?大教正(だいきょうせい)、?権大教正(ごんだいきょうせい)、?中教正、?権中教正、?少教正、?権少教正、?大講義、?権大講義、?中講義、?権中講義、?少講義、?権少講義、?訓導、?権訓導。
なお、教派神道とは、教導職が廃止された時に国家によって統制されていた神道から分かれて独立した一三の派のこと。明治九(一八七六)年、?神道修成派と?黒住教が独立。明治一五(一八八二)年、?大成教、?神習教、?御嶽教、?出雲大社教、?実行教、?扶桑教が独立。明治一七(一八八四)年、教導廃に伴い、神道事務局の教導達は「神道局」という名の宗派を立てる。これが昭和一五(一九四〇)年に?神道大教となる。明治二七(一八九四)年、「神道局」から?神理教が独立。明治二九(一八九六)年、?禊教が独立。明治三三(一九〇〇)年、?金光教が独立。明治四一(一九〇八)年、天理教が独立(井上順孝ほか編[一九九六];國學院大學日本文化研究所編[一九九九];http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kyoha.htmより)。
(19) 廃仏毀釈の猛威と関連して生じた明治初期の信濃の一揆に関する西村寿行の感動的な小説がある。さわりを引用しょう。字数の関係で原文の改行を無視している。
「千国街道は日本海の糸魚川から姫川沿いに松本平に至る塩の道である。名にし負う豪雪地帯だ。ために、千国街道は山の峰近くを通っている。雪崩、落石を避けるためだ。信濃では日本海から入る塩を北塩という。太平洋から運び込まれる塩は南塩と呼ぶ。海のない信濃国では、塩は貴重であった。塩は黒牛が運ぶ。馬では冬場の雪は越せないからだ。牛方は牛をだいじにする。宿駅では小舎に牛とともに眠る。塩を運んで家族を支えてくれる牛はいのちにも変えられないくらいたいせつであった。その牛が、死ぬ。吹雪に道を失って崖から落ちることもある。黙々と働きつづけて若死にするものもある。凍結に足をとられるのもある。牛方は号泣をあげる。牛の死体に取り縋って泣く。牛方は石工にたのんで地蔵菩薩を彫る。馬頭観音を刻む。牛の死んだ峠に建てて供養するのである。千国街道にはおびただしい石仏が祀られている。どの石仏にもものいわぬ悲しみがこもっている。ひとびとは通りすがりに、それらの石仏に野花を供える。ほとんど麦ばかりの握り飯を供えてゆく者もある。松本藩知事、戸田光則は、それらの石仏の首を打ち落とすように命じた。平田国学に心酔する大参事、稲村九兵衛、その部下の岩崎作造らが戸田の廃仏毀釈を補佐した。藩士は狂奔した。野にある石仏、街道にある道祖神、供養塔、念仏塔すべてを打ち壊して回った。明治二年七月、戸田光則は明治政府によって松本藩知事に任命された。それにすがるように、戸田は明治維新政府への迎合姿勢を露骨に示した。政府の神仏分離策に盲従したのだった。千国街道にあるおびただしい石仏はすべて破壊し尽くされていた」(西村[一九八四]、六〜七ページ)。
(20) 高橋和己の小説『邪宗門』((全二巻)河出書房新社、一九六六年、のち新潮文庫、角川文庫、講談社文庫、朝日文庫)で人口に膾炙した「邪宗門」は、権力が正当性を認めない宗門のことをいう。豊臣秀吉が一五八九年に出した「伴天連追放令」以後、日本における正当な権力を認める宗門が「正法」(正しい宗教)であり、これを認めない宗門は日本の正統な国家秩序を破る「邪法」を信じる宗門、すなわち「邪宗門」であるとの位置付けが行われ、江戸幕府もこれを継承した。一般民衆は、キリスト教=邪宗門とする観念を植え付けられた。
慶応四年三月一四日(新暦で一八六八年四月六日)、明治新政府は「五箇条の御誓文」を公卿や大名向けに発布したが、その翌日、全国に五つの高札を張り出した。これを「五榜の掲示」(ごぼうのけいじ)という。三つめの高札には、「切支丹邪宗門」の禁止という言葉があった。外国からの抗議を受けて、旧暦の閏四月四日に、「切支丹」と「邪宗門」を別々に書き分けて、それぞれを禁止すると言い換えたが、新政府の権力者は、明らかにキリスト教=邪宗門という認識を持っていた。「邪宗門」という名を冠した文芸作品には、高橋和己以外に、芥川龍之介、北原白秋のものがある。芥川龍之介の『邪宗門』は、一九一八年一〇月から『大阪毎日新聞』に連載されていたが、未完のままであった。北原白秋の詩集『邪宗門』は処女詩集(一九〇九年)であり、邪宗門に落ちた自らを父に対して謝った内容である(http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku42/kou-moku42a0.htmなど)。
(21) 国立図書館憲政資料室に所蔵されている『青木周蔵文書』の「文書(その一)」には、以下のような目録が付けられている。「1. 帝号大日本政典草案(一八七二年八月一日、木戸公より依頼によりて起草せし憲法原案)。2. 大日本政規(一八七二年冬ロンドン客中、木戸公の命により起草)。3. 青木周蔵書簡草稿(一八七三年四月一五日、在伯林公署より井上伯へ回答)。4. 青木周蔵憲法制定の理由書。5. 青木周蔵独文書簡草稿(一八九二年六月一九日、ポツダムにてドイツ皇帝宛)。6. 青木周蔵宛封筒(空封筒、表に書入あり)。7. 青木周蔵政治意見書(一八八四年二冊)(http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/aokishuuzou1.php)。
(22) 中島三千男の言う「エタティスト」とは、下層階級から一気に政権の中枢に上り詰めた維新の獅子たち=「国家至上主義者」を指しているようである。
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野崎日記(436) 韓国併合100年(75) 廃仏毀釈(9)
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