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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(437) 韓国併合100年(76) 廃仏毀釈(10)

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(23) 当時の駐日英国公使のハリー・パークス(Harry Smith Parkes)が、一八七一年に賜暇のために英国に帰国中、アダムズが代理公使となった。パークスは、賜暇休暇中の一八七二年、訪英中の岩倉具視、駐英公使・寺島宗則と会見し条約改正問題について話し合っている(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/kaigai/gov-england_02.html)。

(24) 周知のことだが、慶応四(明治元)年〜明治二年(一八六八〜六九年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った戦争である。慶応四年の干支が戊辰であったことに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

 この戊辰戦争が続いている慶応四(一八六八)年三月一四日(新暦では四月六日)、福井藩出身の参与・由利公正(ゆり・きみまさ)と土佐藩出身の参与・福岡孝弟(たかちか)が原案を書き、木戸孝允・岩倉具視・三条実美(さねとみ)が文章を編集した「五箇条の御誓文」が発布された。「五箇条の御誓文」は、京都御所の紫宸殿(ししんでん)において神道の形式である「天神地祇御誓祭」に則って発表されたものである。

 それより先の慶応三(一八六七)年一二月九日(新暦では一八六八年一月三日)に「王政復古の大号令」が出された。これは、薩摩藩などが、起こした一種のクーデターであったが、その際、朝廷側の岩倉具視は、天皇は神であると言い、「建武の中興」(注・後醍醐天皇の新政)ではなく、「神武創業」(注・記紀の神話時代)』が明治政府の主権理念として採用されるべきであると強く主張した。この主張から、天皇家は、神話時代の初代・神武天皇から続く「万世一系の系譜」に公式に位置付けられることになったのである。

 「五箇条の御誓文」の第五条には、「智識を世界に求め、大いに、皇基(こうき)を振起(しんき)すべし」とある。先進的・実用的な知識は、世界に求めるが、国の基本形は、天皇主権の統治の基盤を発展させようと主張したものである(http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/meiji001.html)。

(25) 赤松連城の娘・安子が、京都岡崎の本願寺派願成寺(がんじょうじ)の次男・与謝野照幢(よさの・しょうどう)と結婚した。照幢は赤松家の養子に入った。照幢の実弟が与謝野鉄幹である。照幢は、義父・連城の援助を受けながら、明治二〇(一八八七)年、「私立白蓮女学校」(後の徳山女学校)を創設した。この時に、国語教師として招かれたのが弟の鉄幹である。鉄幹は、徳山で、明治二二(一八八九)〜二五(一八九二)年にかけて徳山の地に留まった(http://www.tokutuu.co.jp/tokuyama/tokuyama.htm)。

(26) 当時の西本願寺の改革派は、長州出身者が支配的勢力であったが、同じ改革派でありながら、長州閥に抵抗した僧侶もいた。北畠道龍(きたばたけ・どうりゅう)である。道龍は僧侶でありながら、軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊を蹴散らし、幕府軍の中で孤軍気を吐いた。維新前後には和歌山藩の兵制をプロシア式に改革した。紀州出身の北畠道龍は、西本願寺の改革派ではあったが、宗門内の長州閥グループと激しく対立していた。明治一二(一八七九)年、道龍は明如法主を東京に連れ去り、本願寺の東京移転と西本願寺派の大粛正を宣言し、宗門を大混乱に陥れた。この騒動は、明如の京都帰還によってひとまず治まったが、明治一四(一八八一)年、道龍は海外視察の命を受けて長期間外遊。帰国後、再び仏教改革の獅子吼を発した道龍ではあったが、僧籍を剥奪され、大阪の陋巷に逼塞してその生を終えた。伝記に(神坂[一九九四])がある(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)。

(27) 井上円了(一八五八〜一九一九年)は、現在の新潟県長岡市浦の真宗大谷派慈光寺の長男として誕生、新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)で洋学を学ぶ。明治一一(一八七八)年、東本願寺の留学生として上京し、明治一四(一八八一)年に設立間もない東京大学文学部哲学科にただひとりの一年生として入学。勉学を通して「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」と確信する。ここでいう哲学とは、「万物の原理を探り、その原理を定める学問」であり、それは観念的演繹的な哲学ではなく、事実と実証にもとづく哲学であるというのが、井上の哲学観であった。

 「ものの見方・考え方」の基礎を身に着けることが日本の近代化につながると確信し、私立の教育機関創立へと行動を起こす。そして明治二〇(一八八八)年、二九歳という若さで「私立哲学館」(現在の東洋大学の前身)という哲学専修の専門学校を創設した。学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学に機会を与えた。

 全国各地を巡回し一般民衆を対象に講演活動を行った。迷信打破を説いた妖怪学者としても有名であった(http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/i-enryo.html 、および、http://www.toyo.ac.jp/founder/enryo_00_j.html)。


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