一 組合教会の源流=ピューリタン
日本のキリスト教各派で朝鮮布教にもっとも積極的であった会衆派教会(組合教会)(1)の源流はピューリタン(puritan=清教徒)である。
ピューリタンは、英国国教会(Church of England、Anglican Church)の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント、カルヴァン(Jean Calvin、1509〜64)(2)派の流れを汲むクリスチャンたちである。英国の市民革命の大きな担い手であった。"puritann"という言葉は、「清潔」、「潔白」などを表す"purity"に由来する。もともと蔑称的に使われていたが、自らもピューリタンと称するようになった。一六、七世紀には、英国教会の中にカカルヴァンの影響を受けた改革派が勢力を持つようになったていた。
ピューリタンと一口に言っても、それは、けっして一様な存在ではなかった。英国国教会をその内部から改革すべく、国教会からの分離独立を拒否したグループが非分離派(non-separatist)ピューリタン、分離・独立を強く主張したグループが分離派(separatist)ピューリタンと呼ばれた。 非分離派で大きな影響力を発揮していたのは、長老派(Presbyterian)(3)の指導者、トーマス・カートライト(Thomas Cartwright、1535〜1603)(4)であった。
分離派の中心人物は、ロバート・ブラウン(Robert Browne, 1550〜1633)であった。ブラウンは、ケンブリッジ大学でカートライトの影響を強く受けていた。後には、ブラウンはカートライトから距離を置くようになり、分離派としての信念を強く持つようになった。ちなみに、当時のケンブリッジはピューリタンに傾斜しており、オックスフォード大学は国教会に傾斜していたという(http://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_135.html)。ブラウンは、教会改革は王権に頼らず、教会自身の手によって実現されるべきで、教会は、神を信じて集った信者=会衆の自治を基本として運営されるべきだと説いた。一五八一年、ブラウンは、故郷のノーリッチ(Norwich)に分離派の教会を建て、分離派・会衆派としての説教を始めたが、国教会の許可なしに説教を行ったとして投獄された。そして、一五九三年には、ブラウンの協力者であったヘンリー・バロウ(Henry Barrowe, 1550?〜1593)とジョン・グリーンウッド(John Greenwood, 1554〜1593)が、国教会に刃向かったとして処刑された。彼らを慕う信者たちは、信仰の自由を求めて、アムステルダムに逃れた(http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Pilgrim_Fathers)。
彼らの志を継いだのが、ジョン・ロビンソン(John Robinson, 1575〜1625(5)である。彼は、イングランドの会衆派教会牧師、初期における分離派の中心人物であった。彼は、オランダで巡礼しながらヨーロッパ内外に布教をするという「巡礼始祖」(pilgrim fathers)になるという決意を固めた。
信仰の自由を求めて新世界に脱出したいというピューリタンたちの意志の強さは、現在のほとんどの日本人たちの目からすれば、それは奇跡としか表現できないものである。
一六二〇年には、分離派のピルグリム・ファーザーズの一〇二名がプリマス(Plymouth)に上陸した。一六二九年には、ジョン・エンディコット(John Endicott, 1601?〜1664?)ら分離派のピューリタンが、セイラム(Salem)に三五〇名ほどで入植した。
その後、陸続と会衆派の教会がニューイングランドに建てられ、「神の栄光と教会の福祉のため」、聖書に基づく国家建設が会衆派教会によって目指された(増井[二〇〇六]、六六〜六七ページ)。一九三〇年には、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop, 1588〜1649)が、その前年に裕福なピューリタンたちの出資によって、「マサチューセッツ湾会社」(Massachusetts Bay Company)(6)の勅許を取得した。彼は、やはりセイラムに一〇〇〇人規模の移住者を伴って入植した(7)。
一六四三年、プリマス、マサチュウセッツ、コネチカット(Connecticut)、ニューヘイブン(New Haven)の四つの入植地(コロニー)がボストンで「ニューイングランド連合」(New England Confederation)を結んだ。この時点の四つの地域の人口は二万人から二万五〇〇〇人であったと推定されている。
しかし、初期の米国の入植地には、カルヴァンがジュネーブで行ったものと同じ性質を持つ神権政治(theocracy)が支配した。ボストン教会の牧師で、マサチューセッツの神権政治の指導者であったジョン・コットン(John Cotton, 1584〜1652)の手紙には、<民主主義がよいものであるとは思えず、教会はもとより、国家においても神権政治が最適である>とのくだりがある(Cotton[1636], pp. 209-10)。
ウィンスロップは、当時のコネチカット入植地の指導者、トマス・フッカー(Thomas Hooker, 1586〜1647)宛に、<大衆には、強い指導力を持つ教会の指導が必要である>ことを力説した(Winthrop[1638], p. 290)。要約する。
<社会の最良の部分は少数であり、純粋なものはさらに希有です。恩恵を与えるにせよ、裁判で罰するにせよ、公民の団体に委ねることは非常に危険です>と言い切った。
また、<夫は、妻にとっての「軛(くびき)」ではなく、妻に自由を与えるものである。「自由は、権威に対する従属の下で保たれ発揮できるものである」>との内容の発現をも裁判官に対して出している(Winthrop[1645], pp. 205〜07)。
ニューイングランドの教会は総じて会衆主義のものであった。
「これらニューイングランド入植地に共通な特色は始めからピューリタン的な立国の精神に燃え、全生活にその情熱がみなぎっていたということである」(田村[一九六六]、一〇四ページ)。
入植地初期には、カルヴァン的厳格な宗教的信念が入植者の多くに浸透していたことは確かである。例えば、リチャード・トーニー(Richard Tawney)は記述していた。
「英語国民の社会のなかで、カルヴァン主義的教会国家の社会規律がもっとも極端におこなわれたのは、清教徒がニューイングランドにうちたてた神権政治のもとにおいてであった」(Tawney[1954], p. 135、邦訳、トーニー[一九五六]上巻、二〇七ページ)。
急いで付け加えなければならない。純粋の神権政治、世俗を拒否するピューリタン的信仰もあくまでも、ほんの初期の時期のことにすぎなかった点である。この姿勢は、宣教師に受け継がれたが、市井の人間は、結局は信仰を建前のものだけに祭り上げ、原住民の虐殺を意に介しなかったということが事実であった。
田村光三が指摘したように、「カルヴァンに発し、イギリスの風土と歴史的諸条件によって鍛えられ、補強された革新的ピューリタニズムのエトスが、何らの屈折、もしくは後退なくして、そのまゝアメリカの社会に引きつがれ、ウェーバーの設定したシェーマに一直線につながるものであろうか」(田村[一九六六]、一〇二〜〇三ページ)という見方の方が自然であろう。
田村は、植民当初のマサチューセッツの指導者たちの精神こそが、ピューリタニズムの一側面を結晶化させているとして以下のように説明している。至言である。
「絶対正義なる神の予定の下に、自分ははたして救いに予定されているや否や、これがピューリタンの最大関心事であった。絶対者なる神と孤独なる自己との垂直的な対決は、神のみに対する真摯なる畏怖と自己の罪に対する限りない嫌悪と恐怖を自覚せしめ、<救いのたしかさ>に対する一切の疑惑をサタンの仕業として峻厳に拒否しつゞけることによって、自ら神に選ばれたものであることを頑強に確信するという構造を、この精神はもつ」(田村[一九六六]、一〇九ページ)。
こうして、ニューイングランドには、「選ばれた人々」というエリート意識が指導者たちの間に定着したのである(田村[一九六六]、一一七〜一八ページ)。
しかし、宗教が厳格であればあるほど、そうした宗教がオカルト的なものに転化してきたことは史実の示す通りである。宗教の指導者が盲信しているものを信者に強制する時、宗教は非人間的にして残酷な暴力として信者に襲いかかる(丸山[一九六四]、四〇三〜〇四ページ)。
「殊にマサチューセッツ植民地においては、秩序に反するものを容赦なく罰し処刑した」、「彼らは自己以外の階級と集団に属する人々を排斥し」た(田村[一一四ページ)。
そして、ついに、ジュネーブのカルヴァンが冒してしまった忌まわしい同じ悪しき軌跡、「魔女狩り」が勃発した。ニューイングランド・マサチューセッツ州セイラム村で一六九二年三月一日に魔女裁判が始まり、二〇〇名近い村人が魔女として告発され、一九名が処刑、一名が拷問中に圧死、五名が獄死した(8)。
こうした忌まわしい事件を経験しても、会衆派の教会は着々と米国社会で地歩を築いた。