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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(446) 韓国併合100年(85) 日本のキリスト教団(8)

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(12) リチャード・マザーは、最初の妻との間で、六人の男子を儲け、うち四人が聖職者になり、いずれもハーバード・カレッジの関係者である。

 長男のサムエル(Samuel, 1626〜71)は、オックスフォード大学マグダレン・カレッジ(Magdalen College, Oxford)の卒業生であり、同カレッジ付き牧師(chaplain)であった。ハーバード・カレッジの最初の理事、ダブリンのセント・ニコラス(St Nicholas, Dublin)教会の牧師を歴任した。次男のナザニール(Nathaniel, 1630〜97)は、ハーバード・カレッジ卒業後、デボン(Devon)、ロッテルダム(Rotterdam)、兄の跡を継いでダブリン、最後はロンドンの教会で牧師を務めた。三男のエレザール(1637〜69)も、ハーバード・カレッジを卒業後、地元の教会牧師になった(http://www.1911encyclopedia.org/Richard_Mather)。

 そして、末の六男のインクリース(Increase, 1639〜1723)。この変わった名前は、人々から忘れ去られないようにという父親の願いから付けられたという。やはり、ハーバード・カレッジを卒業した。一六九二〜一七〇一年、ハーバード・カレッジ学長(President)を勤めた。彼は、英国の介入と戦う政治家でもあった。一六八六年、英国王・ジェームズ二世(James II)がニューイングランドを英国領(Dominion)にするとの宣言を出した。その方針に従って入植地総督になったのは、ピューリタン嫌いのエドムンド・アンドロス(Edmund Andros)であった。彼の統治は専制的であった。それまでの入植地の基本形であった「地区会議」(Town Meetings)は非合法化され、新入植地統治は、住民の合意を得る必要はないとし、牧師から結婚の儀式を執り行う権利を奪い、会衆派の拠点であった「オールド南部教会」(Old South Dominion)は、国教会の業務を押し付けられた。英国国教会の権利を向上させるべく、ピューリタン組織の弱体化を図った。インクリースは、国王に直訴すべく、一六八八〜八九年のロンドン滞在中に「名誉革命」(Glorious Revolution)の成功という状況が幸いし、アンドロスは罷免され、新たな入植地への特許状が出され、議会が復活されマサチューセッツ湾入植地とプリマス入植地は合併した。また、新しい総督(Royal Governor)・ウィリアム・フィプス(William Phips)を同行してインクリースは帰還した。

 インクリースは、セイラムの魔女裁判事件での聴聞委員(oyer)をも勤めた。一六九二年半ば、魔女とされた人々を擁護し、地域住民の集団ヒステリーを諫める声明も出している(http://www2.iath.virginia.edu/salem/people/i_mather.html)。インクリースの息子、コットン・マザー(Cotton Mather, 1663〜1728)もニューイングランドの著名人であった。やはり、ハーバード・カレッジを卒業し、政治家として活躍した(http://en.wikipedia.org/wiki/Cotton_Mather)。

(13) ハーバード・カレッジの世俗化を批判して設立したエール・カレッジの気概は、そのモットーにも表されている。ハーバード・カレッジが「真実」というモットーをラテン語で"Veritas"と正門に彫っていたのに対して、エール・カレッジはこれに「光」(Lux)を付け加えて、「光と真実」(Lux et Veritas)を掲げた。設立当初の名称は単に"The Collegiate School"であった。一七一八年に"The Yale College"、一八八七年に"Yale University"に改称された。エールという名称は、創立時に寄附をしたエリフ・エール(Elihu Yale, 1649〜1721)にちなむ(http://www.yale.edu/about/history.html)。

(14) プリンストン大学の創設時の名称は「カレッジ・オブ・ニュージャージー」(College of New Jersey)で、この名称のまま一五〇年間続いた。一七五六年にプリンストンに移転、一八九六年に地域名を冠した「プリンストン大学」に改称(http://www.princeton.edu/main/about/history/)。

(15) メソジストとは、一八世紀の英国で国教会の司祭であったジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703〜1791)よって興されたキリスト教の「信仰覚醒運動」(Christian Revival Movement)の中核的主張である「メソジズム」(Methodism=几帳面に生きること)に生きたキリスト教徒を指す。信徒の集会を基礎とし、規則正しい生活が実践できているかどうかを互いに報告し合う、信仰のレベル別(バンド)ミーティングを重視した。ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心であった。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校や、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジストの貢献であった。上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。信徒を軍隊的に組織した「救世軍」(Salvation Army)、「聖霊」(Holy Spirit)によって魂の清めがあるとする「ホーリネス運動」(Holiness Movement)、「聖霊の言葉」を「異言」(glossolalia)を重視する「ペンテコステ」(Pentecostes)派なども、メソジスト運動を出自としている。「異言」とは、宗派によって定義が違うが、新約聖書のルカやパウロの言葉を手がかりとして、<聖霊によって語らせられる、学んだことのない言葉、自分では何を語っているわからない言葉である。「使徒行伝」第二章の場合は、全世界から集まってきていた人々が、キリストの弟子たちが話していた異言を理解したとある>。「ペンテコステ」の原義は、ギリシャ語の「五〇番目の日)」である。キリスト教では、「聖霊効降誕日」を指す。キリストが十字架に掛けられた後に三日目に復活したとされる復活祭(Easter)から(その日を第一日と)数えて五〇日後に、聖霊が降誕してきた日のこと(http://christianity.about.com/od/devotionals/a/Methodist.htm)。

(16) ウィリアムズは、二一歳の時に、アメリカン・ボードの紹介業務に携わるべく、一八三三年、広東に赴任した。その地で、彼は、広東語と日本語の習得に努めた。一八三七年、日本人の船員を雇って、交易を開くべく日本に向かったが、上陸は許されずに引き返した。しかし、日本に連れて行った船員たちを広東に住まわせ、自己の日本語能力のレベル・アップを図った。広東で英字新聞(Chinese Repository)の発行をしていた。そして、一八五三年、ペリー提督(Commodore Perry)の対日交渉団の一員として、日本に上陸した。一八七七年米国に帰り、エール大学で米国で最初の中国語教授に就任した。一八八一年には「米国聖書協会」(American Bible Society)の会長を引き受けた(http://www.americanbiblehistory.com/samuel_williams.html)。


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