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Channel: 消された伝統の復権
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野崎日記(399) 日本を仕分けする(23) オバマ(5)

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 一 反自民と民主支持とは異なる

 多くの人々が、とにかくいままでの自民党政権が嫌になった。だから民主党に政権交代の夢を託した。しかし、そのことと、民主党に熱い支持が集まることとはまったく異なる。なんだ、カレーライスとライスカレー程度の違いだけだったのかということが人々に意識されたとたんに、民主党は瓦解するだろう。

  そのことは、今年の五月に日本中の耳目を集めた鹿児島県阿久根市長選挙が象徴的に示している。市の支配的な企業や有力人物が斉藤洋三前市長の後継である国交省の役人である田中勇一氏をかつぐことでまとまっていたのに、体制派は、市長を失職させられた竹原信一氏に敗れた。

 阿久根市は、もともと豊富なマイワシで潤っていた漁村であった。しかし、マイワシが獲れなくなってしまった。八〇年頃、鹿児島日本電気が近隣の出水市に工場を建設し、阿久根市にも協力工場がいくつか建てられた。食えなくなった漁民たちがそうした工場で職を得ていた。しかし、二〇〇〇年以降、鹿児島日本電気の主力部門が中国に移され、阿久根市内最大企業であった上野製作所は〇六年に破綻し、三三〇人ほどの従業員が解雇された。さらに、出水市の鹿児島日本電気とパイオニア工場が閉鎖され、阿久根市から通っていた三〇〇人以上が職を失った。市内の製造業就業者数が約二二〇〇人であったので、三〇%が失職したのである。加えて、三位一体改革による地方交付税の大幅削減、公共事業の縮小。こうした低所得層がほぼ全員、竹原氏を支持した。それまでは、自民党支持であった漁業関係者も自民党を見限った。

 阿久根市は全国平均よりも一〇%も高い三四%の高齢化率である。人口も最盛期の四万人から二万四〇〇〇人にまで激減してしまった。業民も九五〜〇五年で七五〇人から四二〇人にまで減った。市民は、まさに食えなくなっていたのである。

 竹原氏は、市役所窓口に「この課の職員は○○円もらっています」とか、自身のブログに職員の給与明細書を掲載し、新築住宅はすべて市職員によるものとか、自治労の市職祖を市庁舎から追い出そうとした。そうした竹原氏の反公務員戦略が効をを奏したのである。ヒトラー的ポピュリズムの台頭である。真の敵を攻撃するのではなく、マスコミ受けを狙うだけの生け贄を作り出すことがポピュリズムと定義したい。

 厚労省の発表によれば、〇七年の一世帯当たり平均所得は前年よりも一〇万六〇〇〇円減少し、平均所得よりも低い世帯が六〇%、年収二〇〇万円世帯が一八・五%に上った。〇九年度統計はまだ出ていないが、この数値よりもはるかに悪化しているであろう。

 〇八年のOECD統計によれば、〇五年の日本の相対的貧困率(平均家計所得の半分以下の割合)は、OECD三〇か国中、四位の高さで、さらに、一世帯当たり所得は減少を続けているという。購買力平価で換算したとき、下位一〇%の平均所得は三〇か国平均よりも低く、上位一〇%では平均よりも高い。

 ところが、この二〇年間に、企業の経常利益は二倍、一人当たり役員報酬は一・五倍、株主配当は四・三倍に増加した反面、給与は〇・九五倍と減少、年収二〇〇〇万円以上の高額所得者は、九〇年の二倍以上になった。
 〇九年七月三一日に総務省が発表した数値によると、完全失業率は五か月連続で上昇し、五・四%になった。これは、〇三年六月以来の六年ぶりである。就業者数は前年同月比一五一万人減と過去最大の落ち込みで、六三〇〇万人だった。製造業や建設業で落ち込みが激しい。一方、完全失業者数は三四八万人と八三万人増と増加幅は過去最大となった。生産活動の縮小などに伴う「勤め先都合」の失業者が一二一万人ともっとも多く、定年や自己都合を上回った。

 警察庁の発表によれば、〇九年上半期の自殺者数は一万七〇七六人と、前年同期から四・七%増えた。このままのペースで推移すると、今年度の自殺者は過去最高だった〇三年の三万四四二七人を超える勢いで、一一年連続三万人を超える。自殺の理由の約三〇%が金銭面の問題を苦にしたものであった。WHO(世界保健機関)によると、日本の自殺率は、世界でも旧ソ連諸国に次ぐ非常に高いものになっている。

 こうした背景が既得権力の瓦解を生み出している。〇九年頭から七月五日までに一一四の自治体首長選があったが、現職が再選されたのは四五の自治体だけであった。まさに、人々は既得権力を忌避し始めたのである。

 二 社会党を分裂させて出現した二大政党

 大企業を中核として、農民や中小商工業者を同盟とする利益分配型の自民党単独支配構造は、一九九〇年頃には、すでに行き詰まりを見せていた。労働組合の上層を取り込んだ二大政党制は、こうした現状打破を狙う層によって支持されるようになった。。自民党を割った小沢一郎氏は、九三年の総選挙で、日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の八つもの政党・会派をまとめ上げて、細川護煕政権を作り上げることに成功した。自民党は一時的ではあれ下野し、二大政党制への過渡期が始まった。しかし、細川政権は八か月しかもたず(九四年四月辞任)、後を継いだ新生党党首羽田孜内閣も二か月後に倒れた(九四年六月)。これは、新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派の改新を結成し、社会党が連立を離脱したためである。そして、自由民主党総裁河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権、つまり、新党さきがけを含めた自社さ共同政権を実現させた。その村山政権も、九六年一月に崩壊する。同時に社会党は社民党に編成替えした。その後、自民党中心の連立政権が続く。自自((九九年一月)、自自公(九九年一〇月)、自公保(〇〇年四月)、自公保新(〇二年一二月)、自公(〇三年一一月)と続いた。

 民主党は九六年、鳩山由紀夫氏と菅直人氏を代表として誕生した。当初、社民党はまるごと民主党に入ろうとしたが、鳩山氏による「排除の論理」で阻止され、社民党の半数が党を離脱して、民主党に合流したが、村山派などは社民党として残った。そして新社会党が分裂し、社民党は三つに分解してしまったのである。そして、九八年新進党の解党を受けて民政党などが民主党に合流、〇三年、自由党と合併した。

 見られるように、左派的な社会党が解体させられた過程が二大政党成立の流れであった。労働組合の上層が「排除の論理」に沿う形で保守的な民主党に組み込まれたのである。


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